自社採用の候補者と採用前にオフィスで話す、みたいな所謂「アトラクティング面接」という儀式があることを、転職エージェントの担当の方から聞いた。よしやってみようということで、大量のドーナッツを購入して候補者とオフィスで挨拶したら、2時間半ぐらい話し込んでしまった。バックボーンも年齢も、何もかも全然違うのに、なんとなくウマが合うというこの感じを大事にしたほうが良いと思う。あと、声はデカくて圧が少なめ、というのも良い。オファー受けてくれるといいな…。
プロレスには縁遠い流石の 俺でも知ってるフリッツ・フォン・エリックの「呪われた一家」。観ながら、帰ってWikipediaを読むのがこんなに楽しみになった映画も久々。悪役レスラーとして名を馳せた自身の夢でもあったチャンピオンベルトを、息子たちに獲得させるため、問答無用の圧をかけるフリッツ。その後、息子たちに降りかかる凄まじい不幸の連続は、しかし父親の所業が原因なわけでもないし、信仰に篤い母親のせいでもない。
確かに「子育てにおける難事をすべて兄弟に丸投げして、「兄弟同士で解決しなさい」と告げるのは、いくらなんでも雑すぎる」と直接的な原因があるわけでもない不幸な結果からそう導き出すのはそこまで突拍子もない結論とは言えないのかも。でも、僕には「父親の育て方が悪かった」と高みから言い捨てて他人事にするのはどうしても気持ち悪いところがある。というのは、子育てって正解が見えないから。今、一人息子を育てている自分でも、この育て方が正解なのかもわからないし、何よりその答え合わせが出来るのは、最短でもあと7年後ぐらいの未来なのだ。
肉体改造の結果、類人猿のような顔になるところまで含めて、ザック・エフロンの凄まじい役作りが印象的な一本。対象的に描かれるフリッツとケヴィン、それぞれの子育て。広い庭でアメフトに興じる家族。真から仲の良い兄弟がフットボールをプレイしている姿と、現在の自分の子供達の姿を重ね合わせ、若い頃は決して父親が許さなかった人前での涙を、ケヴィンは堪えることは出来ないのである。
『渚の果てにこの愛を』のミムジー・ファーマー堪能した。素晴らしい。
ロッキーという息子と間違われた主人公ジョアンは、その母親マラ(リタ・ヘイワース)の狂乱に乗じて息子に成りすます。しかし、不思議なことに、狂っていないはずの周囲の人間、特に妹ビリー(ミムジー・ファーマー)ですら、ジョアンのことをロッキーと信じて疑おうとしない。それでも例えば、マラのことを慕う隣人がジョアンを見る目に少し影が差すと、「このじいさんは気づいているのかもしれない…!」というサスペンスが発動する。この不気味な状況がミステリーとして機能していて、飽きの来ない90分強だった。
でもやっぱり、ミムジー・ファーマーの圧倒的な色香。この時代の、この俳優にしか出せなかった、独特のもので、可能なら物理ディスク買って愛蔵版にしたい、と心によぎったぐらいの美しさでした。『MORE』も良かったけど、俺はあっちより好きだったな。
漫画家としてのキャリアを如何に構築していくか、という意味では熱のこもったアドバイスではあるが、やおら机の上に全裸で立ち上がり「俺を描け!」と指導する教師はどうかしてる。芸術に一途すぎて盲目になっているが故の奉仕なのか、性加害性を多分に含んだ蛮行なのか、確かめる術もないまま、ロバートの目の前で事故死するカターノ先生。「個性を貫け」とは、本心なのか下心なのか不明な言いっ放しのアドバイス。しかし、そもそもそんなものにすがるのが悪い、と責めるのは冷たすぎる。
そうした下品と芸術を一方の極に置けば、他方にはスノビズムと保守があぐらをかいている。「道を踏み外せ」とそそのかす下賤の民と、「道を踏み外すな」と縛り付ける退屈な凡人。その極をフラフラと地に足のつかないロバートは、学校を辞めると宣言し、家を飛び出して貧民街にアパートを借りるが、そこは映画史に残るレベルの悲惨な住居。簡単ではあるが、思い出せる限り、その悲惨を書き出しておきたい。「住んでいることを人に漏らすな」との命令や、室温をみだりに上昇させている「法律では止めてはいけないことになっている機械」、「何がいるのかわからない」水槽などの説明がなされることはない。L字に置かれたベッドで、木の枝みたいな黒人のおっさんとの二人部屋。家主とそのおっさんは、夜な夜な汗で肌をぬらぬらと濡らしながら、汚いノートパソコンで古い映画のDVDを観たり、ロバートの持ち込んだ卑猥なコミックでいけないことをしたまま眠る。
そんな貧民窟のような部屋で暮らすロバートの前に、かつてコミック業界で働いていた男・ウォレスが現れる。イメージ・コミックス社でカラリストのアシスタントをしていたというその男を、コミック業界と自分をつなぐ蜘蛛の糸のように信じ込んでしまったロバートは、彼に有料のレッスンをお願いする。かすかな希望に見えたその邂逅が、いつしか悲惨な袋小路への道しるべにしかなっていなかったことを知ると、ロバートの人生は前にも後ろにも進まなくなってしまったように感じる。
A24製作のブラックコメディ。『イカとクジラ』に出演していたオーウェン・クラインの初長編監督作で、サフディ兄弟がプロデュース。冒頭から音楽が良いなと思っていたら、ハイ・ラマズのショーン・オヘイガンだった。極上の「ニキビ映画」でもあり、彼らの肌の汚さが、彼らの未熟さを表現している。醜いものを醜く、汚いものを汚く描く、傑作だった。
仕事でミスってしまった…。大チョンボ…。ホント申し訳ない…。公開タイミングのハンドリングはミスらないようにしたいです。
渋谷、「雑中華」と呼んでいる雑な中華屋(でも美味い)で元&現同僚と飲む。音楽の趣味があう人たちの集まりなのに、話題はずっと政治のこと。イスラエルとパレスチナのこと。もう、気楽に音楽や映画の話をしていれば良かった時代は終わったんだ…と悲しい気持ちがないと言えば嘘になるが、真正面からこういう話が出来る友達がいて嬉しい。でもマールタ・メーサーロシュの話も出来たし、ZINEやイベントやろう、って話にもなったのが良かった。少しでも日常が前に進む飲み会が一番好きだ。
月曜日。久しぶりに朝バスケ行けて嬉しかった。もう大分暑くなって、図らずも有酸素運動になった。昼には食事しながら『バッドキッズ』。すべての展開を知っているはずなのに、なんでこんなに驚いているのか、それは、翻案があまりに大胆だったからですね。速度は損なわれ(そらそう。『ゴールドボーイ』は2時間、『バッドキッズ』は全12話)、解像度は上がっている。今日観た第五話では、東昇の出演はなしで、ひたすら朝陽父の再婚相手の執拗な行為にスポットを当てていて、これ映画では前日譚としてほぼ触れなかったところ、もしくは、役柄が分割されているが故に発生しているイベント。妻が「これ、どうやって解決するの!?!?」と心配していたが、いやいや、これはアクロバティックな解決をするのですよ…。ただ、それが本当にそうなるのか、全く自信がないのである。
ビックリするぐらいポリティカルだった1968年の日本映画『昆虫大戦争』を観ながら、PV制作のためのコラージュの準備。グリーンバックのために布まで購入し、これ、上手くいくのかね、金ドブに捨てたかな…とか絶望的な気分になっていたが、After Effectsに落とすと、いやー見事に抜けるもんですね。感動。スクリーンでは、あれほどオッペンハイマーが危険視していた水爆がパラシュートで放り出され、それを血眼で探すアメリカ軍が批判的に描かれる。適当なちょいエロインサー トかと思っていた前半の水着美女が、とんでもなく重要な役割を担っていたりで油断できない。「大戦争」と煽る割には、昆虫は地味なムーブを繰り返し、どちらかと言えば「大戦争」しているのは人間の方。狂っていく黒人兵が日本語ペラペラなのも凄いけど、本当に狂っているのか、麻薬中毒の戯言なのかを確かめるために、故意に昆虫に刺されるという決断を下す科学者の狂気もなかなかのもんだった。ラストは本当に身も蓋もなくて口あんぐりでした。
春の井の頭公園。人気の「台湾老劉胡椒餅」ではなく、その近くにできた「囍茶東京」で胡椒餅を食べる。ネギが入っててとても美味い。マスコットキャラが妻に似すぎてて、みんなですごく笑う。
Netflix『忍びの家』最終話。すごく満足した。ジョン・ウィックmeetsポリティカル・サスペンス。ノイズにならない程度に取り込んでいる功夫要素もバランス感覚が良い。物語的には全く終わっていない、むしろこれからなので、シーズン2を心待ちにしてます。
夜は下高井戸シネマで杉田協士監督『ひかりの歌』。妻も興味持っていたが2時間半もあるので家族では無理。アフタートークで杉田監督と、第二章の主人公 今日子役の伊東茄那さんが来ていて、ラッキーだった。『春原さん〜』の原作が東直子さんの短歌で、おや?と思い帰宅すると、原作本が家にあったので、妻に勧めてみようと思う。高揚した気分のまま、月見湯へ。暖かい春の好い日だった。
家に籠もってNetflix『忍びの家』を3話見進めてしまう。Netflix制作の日本のドラマの中でもトップクラスに面白いのではないか。忍者版『インクレディブル・ファミリー』とも言えるし、そこにかなり濃厚なポリティカルサスペンス要素をぶち込んできているところがたまらない。ワールドワイドでのセールスも見込めそうなのは、エキゾチックな要素もあるし、日本人俳優の質が上がったからというのもあるんじゃないかと思う。残り1話。
ダニエル・デイ・ルイスが意外と苦手なのかもしれない、と認識したポール・トーマス・アンダーソン『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。冒頭の過酷で静かな孤独の時間が、喧騒という喧騒を経て、再び静かな孤独に回帰していく物語。素手での掘削作業で間の抜けた大失敗をしでかし、足を骨折したまま鉱石を換金していたところから、ノウハウとハッタリで大富豪にのし上がっていく。しかし、当人は儲けた金で幸せになるどころか、いつまで経っても喜びが得られた様子もなく、息子が事故で聴覚を失った辺りから、周囲の人々とのコミュニケーションにも失調をきたすようになっていく。いかにもPTA作品らしい、ヤマもオチもなく不定形のナラティブが2時間半、ずっしりと横たわっている様子。どこかチャップリンのようなオールドスクールなコメディ映画を感じさせる演出も飛び出すが、運命は一向に前進せず、撮影も音楽もどんよりと、まるで黒くて重い原油を被ったかのような面持ちで、そのコミカルさを塗りつぶしてしまう。
当塾したむすこを迎えに行き、もんじゃを食べてビールを三杯、月見湯で湯にあたって帰宅。凄まじく忙しい一週間だったが、充実感もあった。「楽 しいミーティングにしましょう」と言ってもらったのが嬉しかった。終始、ニコニコとオンラインで重要な話。楽しく仕事していた。
Prime Videoで配信停止寸前だったドナルド・グローヴァーとリアーナの『Guava Island』を観る。青い蚕を資源として産業を興し、自由を失ってしまった「グアバ島」で、音楽を愛する若者が一夜の祭りを企画している。島を牛耳る企業のボス=レッドは、それを許さない。自由と産業の対立を、音楽祭の現場に落とし込む。ドナルド・グローヴァー=チャイルディッシュ・ガンビーノによる「This is America」の変奏。多彩が故にすべてが余技に見えてしまうというドナルド・グローヴァーの圧倒的な才能よ。リアーナとレティシア・ライトが眩しいのも良かった。
こんな演奏されたら、ねえ…。たまらんかったよ。
Spotifyが特定の条件下でノイズやアンビエントの報酬を減らす、という話と、年間1000再生以下の楽曲には支払いを行わないという件。確かに文面だけ見ると、マイナージャンルの音楽を作っている者からすると穏やかじゃない気持ちになるのだが、この件に関しては単にSpotifyを悪者扱いするのもちょっと違うと思っている。前提にあるのは、AIなどを使って「アンビエント」を量産し、垂れ流すことで収益を掠め取っている輩の存在があり、そういった悪質な行為に対する対抗措置としては分かる部分もある。ただ、もうちょっときちんと審査すれば?とか、この措置を行ったところで、粗製乱造が不利になるとは限らないのでは?という疑問もある。いずれにせよ、この「サブスクビジネス」は、ロングテールをすくい上げる類のビジネスではなく、シンプルに強いものがより獲得するという強者有利の世界だということはそれ以前からはっきりしているのだから、マイナー音楽を作ったり愛好する俺達は、別のたたかい方を探る他ないのだ、という気持ちを強くした。Bandcampって、そういう意味でちゃんとオルタナティブだったんだけどな、残念だな、という気持ち。
確かに不死身は不死身なんだけど、その不死身の在り方が「痛いの我慢する」とか「一発逆転にかける」みたいなど根性もので最高だった『SISU/シス 不死身の男』。第二次大戦時代のジョン・ウィック、という見方ができるかもしれないが、にしても危機を脱するやり口があまりに独特すぎる。堪能しました。
本作では「女性を捕虜に取り、街を焼き払うナチス残党」というパブリックエネミー感満点の醜悪な敵が、復讐の鬼と化してフィンランド軍を追い出されるという曰く付きの超怖い男にとにかく酷い目にあいます。『イコライザー3』の「アクションヒーロー映画を観ているつもりでいたら、いつの間にか殺人鬼視点のホラー映画になっていた」という感覚と同時に、「死ぬのを辞める」という斬新な手法でサバイブする「不死身の男」が「シンプルに怖い、何考えてるか分からなくて」という感覚も味わえて、ホラー映画です、これは。特に、敵から逃げて潜った湖で呼吸を維持する方法と、吊るし首にされても生き延びる方法が、あまりに斬新で吐きそうになりました。
Twitterを観る頻度が相当低くなった代わりに、どこで情報収集すべきか。Google Discoveryをとりあえず使ってみてるんだけど、所謂「マスコミ」の文章力が劣化していて哀しくなる。「AさんとBさんが結婚しました」という話題で、「AさんとBさんが結婚しました」→「なぜなら!AさんとBさんが結婚したという事実が先日報道されたからです」→「AさんとBさんが結婚したということは、相性が抜群ということです」→「今回は、AさんとBさんが結婚したという情報をお伝えしまし た」みたいな、あまりに中身のない記事に溢れている。つらい。
春休みが終わり、新学期が始まったので、むすこが一向に興味を示さなかった『バッド・キッズ 隠秘之罪』の視聴を再開する。2話目。『ゴールドボーイ』は観ているから、話の流れは知っているはずなのに、あまりに改変されているので、ほぼ初見の感覚。2話目のラストは、『ゴールドボーイ』でも重要な挿話として語られるから裏側把握しているはずなのに、シチュエーションが違いすぎるので目が飛び出た。一方で、この物語を二時間に脚色してみせた『ゴールドボーイ』の凄まじさにも驚愕してる。話の端折り方が巧すぎる。比較して話せる人、誰か…。
オードリーのラジオで当時の話は(当然)聴いていた『笑いのカイブツ』を下高井戸シネマで。引き込まれてしまった。「伝説の」ハガキ職人=ツチヤタカユキが、オードリー若林くんに見出され、大阪から上京して見習い作家としてのキャリアをスタートさせるも、「人間関係不得意」と書き残して失踪する話、として認識していた(実際はちょっと記憶違いだったんだけど)ので、その全貌がツチヤ側から語られる面白さみたいなものを期待して、その期待通りのものが返ってきた。日本映画の役者はどこからこんなに粒ぞろいになったんだ…と恐ろしくなるほど、仕事の質が高すぎる。主演の岡山天音は勿論(「勿論」で片付け るのは申し訳ないほど)素晴らしい熱演とバランス感覚(その場しのぎの絶叫とかなし)で、彼を観ているだけで十分。しかしながら、共演陣がみな見事で、各シーンでサブキャラクターが主演を喰らうぐらいの演技を見せる。松本穂香とか、菅田将暉とか、本当に驚かされた。
オードリーは「ベーコンズ」という名義で出てくるんだけど、仲野太賀が若林くんにしか見えないし、板橋駿谷は発声まで春日に寄せてる。で、仲野太賀の隣にいる人が、メガネで作家で「元芸人」と紹介され、「今もやってるよ!」とツッコミを入れるというサトミツっぷり。途中から、「若林ーーー!」「サトミツーーー!」って、なってしまいましたわ。あんまサトミツに酷いこと言わないで欲しい!って思いました。
「この役者陣の素晴らしさを十分に活かすための環境づくりに徹したのかな、それは正解過ぎるな、監督」って思っていたんだけど、終演後のトークで、それは結果的にそうなっただけなのかな、臨機応変で、それは正解過ぎるな、監督。って思いました。傑作です。
なんか火が着いてしまい、延々『Sifu』をプレイし続けていた。クリアして、闘技場が始まり、あまりの難易度に先に進めなくなり、いよいよそこから更なる『Sifu』の世界が始まる、という感じなのかもしれない。あまりに闘技場をプレイしすぎてて、通常ステージが余裕になっていた。
ハチミツ二郎さんのnote、課金して読んだ。『マイ・ウェイ/東京ダイナマイト ハチミツ二郎自伝』の続きのような気持ちで。覚悟の文章。俺は決して、東京ダイナマイトの良いファンではないけど、それでも「寂しい」気持ちは否定出来ない。娘さんの幸せを、とにかく祈ってる。