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スウィート・シング

音楽を塗り替える視覚体験って、ある。何度も聴いたはずのKaren Dalton「Something On Your Mind」。ドブ川に浮かんだジェムのように震える喉の掠れに、ビリーたちの数日が重なる。網膜を焼くスーパー16mmの粒子に刻み込まれた、見えていない残像や、聞こえてこない息遣いのように、その荒々しい生命の隙間に揺れるノイズが。

アメリカの底辺に喘ぐ主人公ビリーたち一家。人様の車をパンクさせる自動車工場の裏稼業みたいな、あまり褒められたもんじゃない生業で日銭を稼ぐ。『Lenz』アレクサンダー・ロックウェル監督の最新作は、そんな家族がどうしようもない現実と弱さに退路を断たれた、その袋小路でささやかに花開く幸福の一瞬や、ビターな現実と紙一重のところ、倒れるギリギリまで足を震わせる姿を描き出す。

せめてクリスマスは楽しく過ごしたい。そんな家族の願いは叶うか叶わないか、危ういところで護られた幸福なひとときは、しかしもって脆弱である。踏んだり蹴ったりの運命を酒に溺れることでやり過ごそうとする弱さは、ビリーの父を蝕む。自らの名前の由来となったビリー・ホリディを夢想し、プレゼントのウクレレを拙い手付きで演奏するビリーと弟のニコ。ヴァン・モリソンの「Sweet Thing」を歌うビリーの凛とした声は、残酷の時を幸福で満たすよう。「I will never grow so old again」しかし、その歌声は幾度となく途切れ、わたしたちは否応なく大人にならざるを得ない。

地獄巡りのような逃避行の終点まで、事態ののっぴきならなさと裏腹に、姉弟に友人と加えた三人の子どもたちはどこか浮世離れした夢を見るような態度で、現実の牙が届かない。残酷な運命に唾棄するのでもなく、解決すべき未来として疾走する子どもたちの健気が白黒の現実に仄かな彩りを添える。結果として、世界は微かな夢としての色を取り戻す。現実の行き止まりとしての海、荒々しく行き場のない暴力の予感としての火花、朽ちた文明の虚無としての草花が、唐突に色を取り戻すのと同じように、眠りの忘却の中でほとんど霧のように霞んでいく子どもたちの姿は美しい。

チリチリの髪が本当に麗しい主人公のビリーとその弟のニコは、監督アレクサンダー・ロックウェルの実の子どもたち。本当に、単に自分の子どもたちの美しい姿を残しておきたかっただけなのかもしれないし(気持ちはすごくよくわかる)、僕もその純粋な姿に心打たれてしまっただけなのかもしれない。ただ、ここに何かが結実していて、それに猛烈に心動かされている自分がいることを疑う必要ある?「I will never grow so old again」。クロエ・ジャオ(『エターナルズ』『ノマドランド』)の師匠でもある、アメリカンインディーズ映画の隠れたカリスマによる、淡く輝く宝石のような時間だった。

MCATM

@mcatm

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