小さな滝が飛沫をあげるその奥にしゃがみこんで、一心不乱に股を拭いている少女。じぐざぐ道を征くキャンピングカーからゆっくりと、まるで逃げるように動くカメラ。リズミカルだがゆっくりと力強く回る風力発電機の奥の陽光。画面の中心に収まるべきものは不安定に揺れ動き、クローズアップが詳細をはぐらかしたり、いざ事が起こってもその核心はぼんやりと夜の闇に溶け込んだりする。
こうした図像演出が単なるギミックに落ち着かないのは、物語の構造も視覚的な特徴と相似形を成しているからである。赤くくすんだキャンピングカーで田舎町を巡る父と娘。移動映画館を営む傍らで、車内でDVD-Rに焼いた海賊版のポルノを売って生計を立てている。そんな先の見えない爛れた貧困生活を何年も 続ける中、初潮を迎えて大人への階段を登り始めた少女は、父親に「海へ行きたい」と告げる。その後、二人きりの陰鬱な旅路を経て、いくつかの寂れた街に到着するが、微妙に遠かったり、事故に行く手を阻まれたりして、「海」という中心への旅路は永遠とはぐらかされているような気分になってくる。
しかし、そもそも「海へ行きたい」とは何か。単に「ここではないどこか」を指した符牒なののか。それとも「海」であることに意味があるのか。それをうっすらと理解するチャンスが訪れる頃には、物語は最終盤に差し掛かっていて、にも関わらず相変わらず主題がくっきりと鮮やかに浮かび上がるようなことはない。まるで、要所で流れる劇伴のアンビエントな響きのように、ぼやけて、溶けていく。
そうした曖昧な身体を持った物語の全容が照らされることはないまま、しかし肉体を切りつけると血が溢れ出すように、細部の情感はところどころで生々しく押し寄せてくる。まるで、昨日の出来事は鮮明だが、全体の意味を捉えるのは難しい「人生」のように。そして、数少ない「全体」と「細部」が合致する瞬間に、今まで静かに操作されたカメラがぐらぐらと揺れ、何かが起こっているかのように見えるのだが、その突端も珍しく声を荒げた父親の「塩取ってこい!」の一言だったりするから、この身体には想像の余地が限りなく残されている。
父親と2人きりのキャンピングカーでの夜。性的な不穏さもまとったまま寝支度を整えると、少女は小さな機械を取り出す。スイッチを入れると電飾で彩られたチープな星空が、彼女たちの狭く汚れた暗い車内を照らす。一歩外に出れば、トラック運転手が娼婦を買っているようなスタンドの片隅で、この空虚で過酷な世界は小さく、しかし内側から確かに光を発しているのだ。