Netflix『呪詛』/収奪された記憶を巡る抵抗の記録【ネタバレ考察】
6〜7年ぐらい前、沖縄の小さな離島で、観光地からちょっと離れたところにある小路を進んだところ、不思議な空間に入り込んでしまったことがある。不揃いな石が数個ずつまとめられた「塔」が、ぐるり並べられていたその光景に、誰かが(俺かもしれない)「入ってはダメな予感がする…」と呟くと、皆同意してそーっと退出した記憶が残っている。よそ者には与り知らぬなんらかの法則。そういう「不可侵な何か」の存在を信じさせる雰囲気というのは、確かにある。そして、そういったものに対する無理解や生来の無神経から、不敬を働く連中というのも、確かに存在している。
ケヴィン・コー監督による台湾映画『呪詛』は、土着信仰や民間伝承を取り扱う、所謂「フォークホラー」の一種。TiktokやYouTubeで配信され ているような主観視点を主軸に、「決して入ってはいけない場所」を侵してしまった人々が体験する自業自得な悲劇を描いています。恐怖に心から震え上がった上、大変厭な気分をしばらく引きずっる羽目になったのですが、一方で大量の謎で構築された劇中世界には、思わず四度も観てしまうぐらい心惹かれてしまった。ただし、人によっては数日落ち込むレベルのショック映画でもあるので、ご利用にはご注意あれ。
ということで、ここでは映画の中で描かれていたことをベースに、気になったポイントと、現時点での個人的な解釈、「で、結局何だったのか」を自分なりにまとめておきたいと思います。なので、これ以降は大ネタバレ大会。映像の中で明確になっていなかったり、気づけていないヒントも沢山あるはずなので、その辺を補うため、邪推妄想と深読みを接着剤に組み立てたのが以下の文章です。俺自身、必ずしもこれが正解とは思ってないので、「こういうふうに考える人もいるのか…」ぐらいの温度感で読んでいただけたら幸い。
死生有名
「喃喃怪(ナンナン クワイ)チャンネル」という動画配信チャンネルを運営するアーユエンとアードンのチェン兄弟、そしてアードンの恋人であるルオナンが、「超常現象調査隊」という企画で兄弟の祖父が暮らす村(チェン氏宗族村)に潜入。兄弟がしきたりを無視して禁断の地下道に踏み入れるという過ちを冒すと、深刻な「呪い」が発動します。では、彼らは行った行為は、実際どのような意味を持っていたのか。また、直接地下道には入らなかったルオナンやその娘ドゥオドゥオが、未だに呪われているのはどうしてなのでしょうか?
三人が訪れたこの村では、東南アジアから伝わる密宗に由来する「大黒仏母」という邪神が崇められており、その信者たちの素性や呪文の意味については、劇中、ブラーフミー文字を読解できる雲南の密宗の和尚が語りで解説されています。この仏母は様々な業障をもたらすため、信者は自らの名前と、供物や生贄、信者の身体の一部を捧げる儀式を行い、村の地下道に仏母を封じ込めています。その土着の儀式の最中、禁断の地下道に踏み入ったチェン兄弟は、封印された仏母の顔を覗き込むと呪いが発動し、その恐怖の只中で半狂乱の二人が様々な結界を破ることで、こともあろうに村に封じ込められていた呪いを外部に解放してしまいます。その後、主人公であるルオナンが「禁断の地に踏み入ったことで決定的に呪われてしまった娘を、視聴者と呪いをシェアすることで救おうとする」という物語を、配信を通して我々に語っているというのが、この映画の基本的な構造になっています。そのため、彼女が頑なに撮影を止めないのは、呪いの実態 を視聴者である我々に可能な限り正確に提示したい、その上で呪いを共有したいという邪な意思があるからだと思っていました。
大黒仏母の要求に応じる形で村人が唱える「ホーホッシオンイー・シーセンウーマ」という呪文には「自らの名前を捧げて、共に呪いを受ける」という意味が込められています。祈りの仕草は、密宗の八方天へのものとよく似てはいるのですが、「幸福や功徳を集める」という意を持つ最後のポーズが、それとは真逆、すなわち「拡散」を示す手印に変形しています。かの村では、住民がみな祈りを捧げて呪われる代わりに、一人あたりの呪いの効能を薄める、という運用が行われてきました。この呪文は「禍福倚伏 死生有名」がなまったものであると、密宗の和尚によって語られます。『論語』において、孔子は「死生有命」、つまり「人の一生は、天命によって決められている」ことを説きました。「禍と福は交互に訪れるが、人の一生は天命によって決められている」。ただ、仏母の顔を隠す布に書かれているのは、この「死生有命」をもじったと思しき「死生有名」の文字。「運命は、名前によって決められ、決して逃れることは出来ない」と解釈するのであれば、それは名前を収奪された人々、そして他ならぬドゥオドゥオ=チェン・ラートンの運命と一致してはいないでしょうか。
顔
子どもを含む多くの人々の悲鳴や悲痛な唸り声が、仏母の、それも顔の奥から聞こえてくるような描写から、呪われた人々の所謂「魂」は、和尚曰く「呪いの力が集まる中心」たる「顔」の深淵に幽閉されているの だと推測されます。顔の中心にあるこの「深淵」が、すなわち「口」を暗示していると考えると、業障としての「多歯」の持つ意味合いが浮かび上がります。ビデオの謎を探るチーミンからの映像にも、彼の歯が抜ける場面が収められています。苦しむドゥオドゥオも、「かゆい」と叫びながら地下道を逃げ出したアーユエンも、大量の歯を生やした口内からボロボロと歯を落としていました。彼に噛まれたルオナンと、ドゥオドゥオに噛まれた幼稚園の友達の、腕に残る奇妙な噛み跡の一致。大量の歯が不快なかゆみを伴って抜け落ちていく症状の果てには、この仏母の「口」のイメージが確かに待ち構えています。
いくつかの場面で印象的に登場する「虫」も、仏母に名前を奪われ、かの深淵に幽閉され悲鳴を上げる人々の呪われた魂、比喩ではなくまさにそのものなのだと思わされる場面にいくつか遭遇します。例えば、ドゥオドゥオがトイレで吐き出したパイナップルの中に含まれていた葉を食む虫。あの時点で、数度に渡る侵入を成功裡に、そもそも生まれた時から捧げられていた名前と共に、仏母はドゥオドゥオの魂を奪い取りました。また、彼らの行動する場面場面で現れる多くの虫、これは既に名前を奪われている人々の魂であり、かの村の人々は、こうして魂の成れの果てとしての「虫」と共に生きていることが推測されます。村の様子を映すアーチエンのカメラも、皿に集めた虫を痩せた植物の上に落としている血色の悪い男性の姿を捉えています。彼は、虫を獲っているのではなく、虫を緑に、土に還しているように見えます。
仏母 によって収奪された名前は、使うことも思い出すことも決して許されません。それを行ってしまったり(考えてみれば、名前を「思い出さない」って結構キツい)、呪いの中心に触れてしまった者は、多歯、出血、皮膚の爛れといった強烈な業障の果てに、自らの名を発しながら自ら死に向かうことを強要されます。その場合、多くは、顔面を破壊することで亡くなっていくことから、この「顔の真ん中に穿たれた穴」というイメージが、死因と密接に結びついていることがわかります。交通事故で死んだルオナンの両親(名前を呟きながら車に激突する父親も、車が来なかったら縁石に頭を打ちつけていたでしょう)や、歯をボロボロとこぼしながら「聞くな!」と叫んで抵抗したアーチエン(聞かれていたのは、おそらく名前)は別として、燃える病院(宗教画参照)の中で、縊り死んだ精神病院のウー院長や、ご丁寧にドゥオドゥオの本名入りのお守りを買うことでアツアツの溶けたガラスを口(顔のど真ん中!)に差し込んで周囲を恐怖のどん底に陥れるお節介な施設職員・シアさん。禁断のビデオを観て、(頭、とかではなく)顔の真ん中を撃ち抜いた二人の警官。そして、ルオナンを含むその他の多くは、顔面を強く打ち付けることで死んで行くのです。
隠れて儀式を撮影していた一行を発見した経文の少女は、天井に大きな宗教画が描かれている最初の儀式を行った部屋に、女性であるルオナン一人を案内します。ここに描かれた大黒仏母の姿にも、「顔」の機能と役割が刻印されているように思えます。後にドゥオドゥオが仏母の奸計によって禁断のビデオ カメラを観てしまった仏像の間にも似た、赤く光るこの部屋では、天井の仏母の顔の真ん中から血のような赤い液体が滴り落ち、もぞもぞと蠢く影が虫を連想させます。多数の腕を持つ仏母の姿が中心に大きく描写され、地下道にもあった指差しを行う地蔵や、炎上しながら四隅を占める雲南の密宗の寺によく似た「廟」、壺を一杯にした虫、切り取られた首などがモチーフになっており、インドのカーリー像や鬼子母神を想起させます。
あの不気味な村人たちは、こうして仏母を村の中、地下道の中に封じ込めておきながら、親戚の子どもたちを生贄にして、仏母の影響を少しずつ薄めながら延命していました(6年前の時点ですでに、かの村には、子供の姿がほとんど見えません)。チェン兄弟とその祖父の会話は、兄弟が村に来たこともないし、祖父とはお互い直接会う機会がなかったか、もしくは極端に少なかったことを示唆しています。村人たちは、保身のため、業障を村の中に封じ込めると同時に、少なくとも仏母の影響が流出することを危惧して、外部の人間が儀式に参加することや、ビデオに撮られた映像が公開されることにも難色をしめしていました。ルオナンも追い返されるところでしたが、彼女の妊娠を看破した長老である老婆の鶴の一声で許可されます(手相を見て確認出来るのかは全く知らんが、そこはケレン味)。仏像をタイヤに巻き込んで立ち往生した時のルオナンの一回目の嘔吐が、普通につわりだった可能性もあります。ルオナン自身は外の人間ですが、ルオナンの胎内にある子ども=ドゥオドゥオは、チェンの血を継ぐ「親戚」。「仏母も喜んでいる」と、長老 も告げています。そして、意図は不明ですが、アードンは愚かなことにお腹の中の子どもの名前を「チェン・ラートン」として欲しい旨をルオナンに告げており、この時点で、ドゥオドゥオの本名は仏母に捧げられてしまいました。
チェン兄弟の祖父が言うように、兄弟による冒涜が起こるまで、この呪いの効果は村の中に限定されていました。少女の抵抗を振り払ってビデオカメラを外に持ち出し、6年間の空白、つまり入院と出産、「怪物」を恐れて娘を里親に出した後、ようやく取り戻した正常な精神を以て自らの母性と向き合ったルオナン。子ども部屋に装飾した「Welcome」が、最初「We come」になってるという厭な小ネタも挟みつつ、里親であるチーミンの施設からドゥオドゥオを引き取ると、忘れているのか、強い覚悟があるのか、諦めていたのか、舐めているのか、早速本名を教えます。二人がおどけて「チェン・ラートン」と二回ずつ読むと、真っ二つに割かれたゴキブリを伴って居間の窓ガラスが割れ、何かの侵入を感じさせるのと同時に、ドゥオドゥオの身体が何かに侵されたことが、左目の血豆のようなものから推測できます(仏母による悪趣味な登場演出は、勝手に動くルンバや、もそもそと蠢く肉塊などでも存分に発揮されます)。かくして、「名前」を巡るルオナンとその娘ドゥオドゥオ=チェン・ラートンの勝ち筋の見えない戦いが勃発します。豪快に我々を巻き込んで。
鏡
村を出たルオナン親子の往くところ、悪者もしくは虫が現れるとき、多くの場合、そこには鏡が置いてあります。娘を迎え入れた夜、突然の停電で 暗闇に包まれた家に、何らかの存在を感じるシーンでは、叫び声と共に開く空のエレベーターの奥にそれはありました。ルオナンの職場にも大きな鏡があり、そこでも大量の虫が発生します。ドゥオドゥオが屋上から飛び降りるよう指示されている時も、背後の壁には鏡が立て掛けてあるのがチラッと映り込んでいます。また、自宅でドゥオドゥオの指示の下、上の方にいるらしき大人の目には見えない「悪者」とルオナンが手を繋ごうとするシーンでは、気づくと映像自体が鏡越しに撮られているのがわかります。かの村を目指すチーミンと親子が、無限に続く道に閉じ込められてしまうシーンでも、ボロ布のような「何か」が現れるのはカーブミラーの脇。直前に観た焼き殺されるアードンの映像からの連想で、吊り下げられた焼死体に見える「何か」は突然姿を消すと、エンストした車の上から三人を襲い、ルオナンとチーミンは例の呪文を唱えて窮地を脱するのですが、こうして少しずつ呪いは二人の身体を浸していきます。
一方、アーチエンが何度も意味ありげに話す通り、地下道にも大量の鏡が設置されています。地下道の内部構造を正確に把握するのは困難ですが、現段階では、供え物には常にそれを映す鏡があり、天井の宗教画にも描かれていた「指を指す仏像」の指の先にも鏡があり、いくつかは合わせ鏡のようになっていることが推測されます。アーチエンの蹴り壊した地下道の扉の裏側にも鏡が貼ってあり、割れて破片となっているのも確認できます。合わせ鏡が、仏母の深淵を想起させることもありますが、いくつかの円が対角線上に配置されたあの「符号」の作りにも関連が伺えます。鏡と鏡、それを指差す仏像が、中心を垂直に走る線分に断ち切られているという図は、邪推がすぎるきらいはありますが、この村で運用されてきた封印の仕組みとして一つの視点を提供しているのではないかと思います。チェン兄弟による侵犯がその多くを破壊したことから、仏母の呪いは解放されますが、終盤の再突入における、鏡を割ったり、供え物や仏像を正しく配置し直すルオナンの行動は、その解放を、意図的に、徹底的に、行ったものです。これらの行動は、6年前に出会っていた雲南の和尚によって指南されているか、ヒントを受け取っていたはず。「父親になる気分を味わいたい」という随分と迂遠なモチベーションから呪いの調査を進めていたチーミンよりも遥かに早く、ルオナンはすべてを知っていて、その上でその事実を伏せていたのでした。チーミンにも我々にも。
視線
状況は急速に悪化していく中、ルオナンは突然謎の道士の元を訪れます。あまりの説明のなさに、以降続くルオナンによる視聴者に対する数々の裏切りの端緒が、ここからも見て取れます(おそらく、両親との会話に出てくる「道士」だとは思います)。「やっぱり来たか。これが運命だ」と嘯く道士は悪魔祓いを開始して、小さいドゥオドゥオにはあまりに辛い7日間の断食を命じます。その断食を怠れば、道士の奥さん曰く「私と師匠の命に関わる」問題が生じます。しかし案の定、あまりに苦しそうな娘の姿に耐えきれなくなったルオナンが、缶詰のパイナップルを一切れ食べさせると、体調は一気に悪化。皮膚に血に溢れる蓮のような疵を負い、消耗す るドゥオドゥオ。急いで向かった先で、うずくまって血を吐くアーチン師匠はおそらく死に、助手である奥さんが「後ろ向きババア」となって俺たちを恐怖のどん底に陥れた後に絶命すると、ドゥオドゥオは天井の悪者に捉えられたかのごとく宙に浮き、そのまま落下して意識不明になり緊急搬送。つまり、ここでも禁忌は破られ、それによって道士達の命が奪われることで、回り回ってドゥオドゥオに対する呪いの力は強まってしまったわけです。
鏡のないところでは、仏母はどのようにして現実に干渉するのか。「視線」がそのヒントになりそうです。この映画では、アードンやアーチン師匠の妻などの呪われた人物や、村やアーチン師匠の家に置かれた仏像の多くが、こちらに背を向けた状態で登場して、それが一斉にこちらに振り返るというホラー演出が、大変効果的に機能しています。シンプルに、めちゃくちゃ怖い。しかし、この演出は同時に、仏母が現実に干渉する際に「視線」が生じている場面を描写しています。例えば、仏母に触れて正気を失い、供えられた髪の房を食べながら地下道を走り回るアードンは、その時点では仏母が乗り移ったような状態になっています。アーチエンに対して背を向けてから振り返るタイミングで、穴の空いたその顔を顕にしながら襲いかかってきますが、この後、実際に肉体的にアーチエンを襲う描写は続きません。代わりに、次々と鏡が割れ、混乱する中、6年後に幼稚園で撮影されたドゥオドゥオに伸びる手と同じような手が、大量に伸びていました。アーチン師匠の家の場合、少なくともカメラに映っている範囲には鏡が見当たりませんが、代わりにこちらに背を向けた沢山の仏像があって、(俺たちが愛してやまない)例の「後ろ向きババア」がこちらを向いて襲いかかる瞬間、ゴロゴロと大きな音を立ててこちらを一斉に振り返ります(儀式の部屋でも同じような状況がルオナンを襲い、その時は経文の少女が頭を鷲掴みにして例の呪文を何度も唱えます。ルオナンを、もしくはお腹の中のドゥオドゥオを、救おうとしたのでしょう)。
そして、視線と言えば、カメラもまた、ある種の「視線」として機能している可能性があります。うさぎのぬいぐるみに仕掛けられたカメラという「視線」は、ドゥオドゥオと「悪者」の接続点として機能しているかもしれません。瀕死の状態で逃げこんだ病院で、重体だったはずなのに夜中一人ベッドを抜け出すドゥオドゥオ。何かに手を引かれるように歩いた先には、6年前に経文を書かれていた少女がほぼ全裸で横たわっていたのでした。生贄を食い散らかしてきた仏母にとって、貴重な数少ない残された子どもたちが合流します。病院の監視カメラの映像は、道行くドゥオドゥオの姿を捕獲し続け、そこに居合わせた多くの人の「視線」はドゥオドゥオを綺麗にスルーし続けます。
意識不明に陥ったドゥオドゥオが、「パイナップルとうさぎ、それにぬいぐるみ」、好きなものを3つうわ言のように呟きながら、必死に悪者と戦おうとしているその様子を医師から聞かされると、ルオナンはいよいよ覚悟を決め、映画の冒頭にみられるように自宅からの配信を開始します。同時に、いよいよ我々は、この物語の当事者に引きずり込まれるわけです。
記憶
こうして、仏母は自らが封印されたあの地下道から、遠く現実世界への侵食の手を緩めようとはせず、母と娘の戦いは一方的な敗色が濃厚になってきます。この、呪いとの無謀な抗いを追いながら、この物語は、最終的な着地点である「記憶」を巡る哀しい諦念に向かって進んでいきます。
身体中に経文を書いたルオナンは、入院中の少女の耳を切り落とし (セキュリティ甘すぎなのは、やはり「視線」の欠如?と大甘解釈)、封鎖された無人の村に到着、地下道に向かいます。6年前の夜、少女と同じようにパンツ一丁で身体に経文を刻んだ人々が、魂を抜かれたような虚ろな表情で立ち尽くしている姿を背に、狂乱のルオナンは村を脱出しました。その様子や封鎖された入り口を見るに、仏母の解放に伴って住民がすべて死亡していても不思議はないぐらいに人気のない村で、ルオナンはいよいよ、大黒仏母の「虚空」に挑みます。しかし、それは抵抗ではなく、完全な服従。娘の呪いを軽減するために、前述したような計画的で徹底的な仏母の解放を行い、より多くの生贄を捧げるために働きます。結局、赤い目隠しをして仏母の中心をカメラに収めるも、圧倒的な仏母の呪いの力の前に、結局頭を打ち付けてしまうルオナンですが、それも覚悟の上だったはずです。
「現実は、自分の想像に合わせて変わっていく(あなたの見方次第で、世界が少しずつ変わる)」という精神科のウー先生による語りは、いくつかの重要な視点を提供します。何度も例証した通り、一つには、この物語の語り手=ルオナンが「信用できない語り手」であることを示しています。ルオナンはわかっていることを不確かなものとして語り、その結果、我々はルオナンの見せたいように作り変えられた物語を体験しているのです。この配信は、「みなが幸せになるよう、呪文を唱えて欲しい」という映画冒頭の語りとは異なり、実際は「みなが不幸になっていく」という結果になることが暗示されています。
彼女の詭弁の中心にある のは、両親の愚かな行為の報いを受け、産まれる前から呪われた主体であるドゥオドゥオ。彼女を救うために奔走した記録を挿入しながら、同時にルオナンは現在の自分を配信に晒します。再び彼女との生活を開始しようとしていたルオナンが、そのタイミングでわざわざビデオカメラを買い、そこから全ての記録を開始して呪いの配信に備えているということは、ここに至る状況を彼女はある程度予測していたということになります。この映像は、残される娘に対する遺書のようなものとして撮影されていたのかもしれないし、己の恐怖心の克服のために、あえて彼女の冒した禁忌に向き合うという意思表明なのかもしれません。しかし、他に目的があるのだとしたら?
そこで、「記憶」の問題は、実はずっとこの物語の中心に据えられていたことに気が付きます。「あなたの見方次第で、世界が少しずつ変わる」という言を思い出してみましょう。ある人から見れば人でなしのような邪な振る舞いを以て人々を不幸にしようとしたルオナンは、しかし、この配信における短い記憶の中では、やはり「愛の人」でした。この現時点での自分の娘に対する愛が、どこかでつながっていて欲しい、という期待を捨て去ることが出来ないルオナン。娘を見た時から母性に目覚めたルオナンが、「私と暮らさなければこうならずに済んだかも」ということをわかっていながら娘を引き取り、二人の思い出を大事に育もうとします。「好きなものを3つ思い浮かべて」と、仏母に対する抵抗の時間を、「幼少期のあどけない記憶」と無意識にすり替えようとします。ルオナンは娘に「私との思い出を覚えていて欲しい」ので、呪われ、衰弱したドゥオドゥオと、浜辺で盗んだ凧を揚げるのですが、このか細い凧の糸は切れてしまうかもしれない。現況に合わせて、ビデオの役割も二転三転します。この「記憶」にまつわるルオナンの執着は、いよいよ生命の危機が迫る中、娘を守るために、自らの、そして我々視聴者の命を捧げる悲痛な覚悟と引き換えに、最終的には表面上放棄されてしまいます。施設に置いてきたぬいぐるみ・ワンジーの代わりに、犬を飼うという約束を果たし、ドゥオドゥオの生活用品一式を犬と共に施設に託したルオナン。カメラに向かって「自分の名前や、ママを忘れて」と訴えるルオナンの思いが成就するのであれば、その映像をドゥオドゥオが目にすることはないという哀しい場面。ここで、記憶の中の「愛」は、決定的に忘れ去られることを望まれているのです。
祈り
先日発表された続編では、多数の犠牲を伴いつつ一旦救われたドゥオドゥオの(おそらくは悲惨な)未来、そして、この動画が拡散されたことで発生した社会の混乱が描かれるのではないかと思います。その行為=呪いの配信が、呪いを希釈することでドゥオドゥオを救ったのと引き換えに、大量の被害者を生み出したはず。そこに我々は、既に現実の我々と切り離された「フィクショナルな我々」の姿を観ることになるのではないでしょうか。当事者性を奪われた我々が、フィクションという虚空の中に置き去りになるという構造も、仏母による呪いの構造と相似形を成していて興味深いところ。そして当然、この「カメラ」という外挿された「記憶」が、引き続き重要な問題となるはずです。
ラストでは、施設ではないどこか別のところにも見える場所にいる、元気なドゥオドゥオの姿が確認できます。ルオナンの決死の努力が完全に無駄だったわけではなかったことにほっとしつつも、果たしてどこにいるのか、ドゥオドゥオがカメラに語る意味深なセリフは、明確な意味を掴みづらいものとなっています。「お家はお城から遠い」「バスに乗りたいけど、お城に行くバスがない」「お城が泡になって消えちゃったからね」。「思い出すことすら許されない」という地獄のような呪いに対して、仏母の視線を転用し、「記憶」を「記録」に焼き付けたルオナンのささやかな抵抗。自分には無理だったとしても、娘が生きて、いつか呪いが解除される日が来たのなら。このビデオには、ドゥオドゥオ=チェン・ラートンとその母親の抵抗の日々が、かつて生きていた父親アードンの自宅に見切れる写真や生きていた姿、そしてその死に様が、確かに映っています。「みなさんは、祈りを信じていますか?」。抵抗は悲惨に幕を閉じたように見えますが、ドゥオドゥオの未来における蹂躙の後へ、こうしてカメラごしの「記憶」が一つの希望をつないだようにも見えるのです。