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アンジェイ・ズラウスキー『コスモス』/より大きな獣、に向かって

借家の軒先に青いケーブルで吊るされた雀を見た時から、形而上の世界が少しずつ現実を侵食し始め、主人公の言動も周囲のそれも果たして何を言っているのか判然としなくなるのだが、それでも不思議と狂気は感じられない。微妙に失調し続ける現実と、登場人物たちがほのめかす演劇的現実の針がピッタリと合っている、そんな雰囲気がそこはかとなく冷えた画面の安定をもたらしているようにも感じる。ズラウスキーの遺作となった2015年の作品『コスモス』。ゴンブローヴィッチの同名小説を原作としているが、作中でゴンブローヴィッチの引用が為される時点で、本作のねじ曲がり具合が想像出来るだろう。

主人公ヴィトルドは、借家オーナーの娘レナの美しさに狂おしいほど惹かれ、惹かれると同時に詩的で曖昧な文句を並べ立ててその気分を撹拌させようとするのだが、一方で唇のねじれた女中・キャサレットに執着する友人・フックスの陰謀論めいた説によって、この土地に根ざした謎が物語の一つの軸として浮かび上がってくる。その軸に沿った形で展開していく物語は、あまりに不条理な腰砕け状態で放棄され、出奔するように土地から逃れようとする人々は「より大きな獣」として、妄想の中に閉じ込められてしまったように見える。

そう考えると終始一貫して、表象は何かの隠喩として機能し、物語上の時制のどこかと連関している。文学とレナの美しさに没入するヴィトルド、興奮すると固まってしまう女主人と何の役にも立たない妄言吐きのその夫・レオン、口唇裂で唇の捻れた女中、美しすぎて誰のものにも収まらない人妻・レナとただ美しく優しいその夫・リュシアン。手のイボに塩を撒き、パンにはナメクジが這い、傘を差したまま海に入り、レモンの皮は床にピン留めされ、卑猥な壁のシミは矢印を形作り、動物たちが吊るされ、グリーンピースが床に散らばり、決定的な言葉にも女は叫び声を上げたまま。数度見ないとこれらの連関〜曼荼羅〜コスモスは正しく理解できないだろうが、一度見ただけである中心に向けて強烈な磁場が働いていることに気付かされるだろう。こうした、一種の「真実」を希求する圧力が物語の場を支配していて、その過剰さがこの不条理劇にコメディ的な表層を与えている。

件の宿から数歩離れた屋敷。本作の物語を経て、主人公はその地に終着するが、そこにはもう一つの可能性も偏在している。この物語は、形而上学〜隠喩〜言語がもたらす可能性を秘めた現実についての実験のように思えた。

MCATM

@mcatm

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