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”正常”の鏡越しにあるサイケデリア/ジャスティン・カーゼル『ニトラム/NITRAM』

がらんどうの部屋で回り続けるレコードに指を添えると、音楽が不安定なピッチで空虚に鳴り、サイケデリアが黒い花を咲かせる。「やっぱり、サイケは正常の裏側にあるんじゃん!」と心で喝采を送ってしまうが、それはこの物語そのものの表象であるのだ。か細い指の一本でピッチを揺らすそれと同じように、一擲の賽が運命の裏表を反転させること。それこそが人生であり、その無慈悲な現実を前に、僕らは為す術もない。

オーストラリア史上最も凄惨と言われる無差別射殺事件「ポート・アーサー事件」を、ジャスティン・カーゼル監督が映画化した『ニトラム/NITRAM』。脚本家のショーン・グラントの曰く、本作は「反銃器映画」である。しかし、あまりに緩い販売基準と、目先の売上に目の色を変え、主人公の様子のおかしさにも目を瞑り続けるなど、何度もツッコミたくなる銃購入の名シーンを以てしても、その「反銃器」という主張はある種大胆な迂回のように感じられてしまう(呼応するように、日本版公式サイトでの監督のステートメントは、脚本家のそれと比較すると、微妙にテーマを横滑りさせているような印象を受ける)。

本作において、犯人の本当の姿は隠匿され続けている。その結果、犯人は、ある人にとっては「病気のかわいそうな人」であり、またある人にとっては「言語道断なサイコパス」となるし、「社会がおかしい」「家庭がおかしい」そして勿論「銃社会がおかしい」と悪環境の被害者としての側面を見出す人も多いと思う。その一方で、この問題の中心にある暗黒は語らざるものとして巧妙に見過ごされていく

「では、その暗黒とは何であるか」の正解を探すゲームは、本作では開催されない。とどのつまり、この暗黒と、その結実としての凄惨な事件は、ひとえにいくつもの偶然や、予期し得ない選択の連なりである。いざ運命が動き出してしまった時、被害者や両親を含めた周囲の人間、そして本人ですら、それを能動的に抑止することが困難であるというその状況が、本作の構造自体に込められたメッセージであると感じた。犯人を称揚するのではなく、我々みな、彼と同じなのであるという警鐘。

「ピエロ」のような素っ頓狂な格好で葬儀に出席してしまうことも、交通事故の危険を過小評価して運転中のハンドルにちょっかいを出すことも、その行為の源流をどこかに見出すことは(本当は)難しい。この人は、何故、こうなってしまったのか。その命題に対して、半ドキュメンタリー的に事実の欠片をそれらしく紡いでいくのではなく、映画のディティールに表出させていく手管は正しい。年中鳴らす花火のせいで近所の鼻つまみ者となっていたニトラムは、「火」と「危険」に対する不感症を増幅させているのか。児童の前で披露する不適切な花火芸を諌められて鳴らすクラクションの騒音、レコードの針音を増幅させたノイズ、そして不快な蜂や蝿の羽音は、周囲から疎まれて拒絶されるニトラムの姿が感じられないか。憧れたサーフィンで挑んだ波に、為すすべもなく蹂躙されて感じた恐怖と屈辱。ニトラムが唯一親密になる他者であるヘレン、あまりに主体性を欠き、ロールモデルとしても親としても相応しくない「弱さ」を持った父、諦念に苛まれ一見辛辣に見えるが、「Love You」を枕詞に、息子に対する強烈な共依存を隠しきれない嘆きの母の後ろには、幼少期のニトラムの写真。鏡に向かった自分の姿にすら他人を感じてしまう、絶望的な疎外感。偶然積み重なった積み木が音も立てずに崩れるきっかけは、「何かやりなさい」と言われた週末に偶然耳にしたニュースなのだから、運命の悪戯の前に我々は無力なのである。

ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(『アンチヴァイラル』『スリー・ビルボード』)が主人公「ニトラム」を演じ、カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞しているが、彼のみならず本作ではキャストが皆見事な演技を披露していて、この達成に大きく寄与している。特に母親役のジュディ・デイヴィスと、ヘレン役のエッシー・デイヴィスの二人が見せる細かい機微が、物語の奥行きを幾重にも増している。今年のベスト候補の一本。

MCATM

@mcatm

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