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濱口竜介『悪は存在しない』/水は低きに流れる

手負いの鹿は襲ってくるかもしれない。子連れならなおさら。

ほとんどが八ヶ岳の麓で撮影されている本作。妻が八ヶ岳出身のため、それこそ色んな話を聞く。地元民と移住者の話、開発業者やサービス事業者にまつわる話。そんな自然豊かな村に、グランピング施設を建設しようと目論む企業がやってくる、というあらすじを聞いた時に感じた、いわゆる「田舎vs都会」的なクリシェかなと思うと、全くそうではない。冒頭の長回しから連想したズビャギンツェフ、特に『裁かれるは善人のみ』的、暴力的な物語を予想していても、その予想は軽やかに否定されてしまう。むしろ、HBO『ザ・カース』的な、「善人であるという偏見」についての物語ではないか。人を襲わない鹿。この鹿が、人を襲うことはあるのだとしたら。

主人公の巧は、薪を割り、水を汲んでいると、公民館に預けている一人娘の花(はな)を迎えに行くのを忘れてしまう。慌てて森の中で追いつくと、帰り道すがら、森の植物や、動物の死骸や足跡を観ながら、二人の時間をゆっくりと過ごしている。果たして、巧の存在を自然と共生する純粋な善人として処理して良いのだろうか。そんなことはない。彼も一方で立派に収奪しているし、そのことに自覚的である。

グランピング施設の建設話は、唐突に持ち込まれる。区長とうどん屋の夫妻、地元の若者といったいつものメンツとしめし合わせてその説明会に参加すると、そもそも芸能事務所がコンサルに言われて企画したコロナ禍における補助金目当ての事業であることが知らされる。その場で計画のずさんさが明らかになると、場は混乱して一旦解散となる。客観的に見れば、巧の取り付く島もないぶっきらぼうさや、金髪の若者・立樹の攻撃的な姿勢だって、決して褒められるようなようなものではない。なにせ、対話は成立していない。対話を成り立たせようと尽力していたのは、うどん屋の女性や、区長、そして会社側の黛だけであった。

たまたま前日に観た『アルファヴィル』の中で、「悪意は存在しない」という一節が差し込まれていて、本作のあまりに率直なゴダールのスタイル模倣だけではなく、重要な意味の収奪があると感じた。段になった排水路を凄まじい勢いで流れていく雪解け水。鹿の水飲み場でトゲに刺さって流れた血。何らかの問題が起こる時、それは何か邪悪な存在が悪意を以てそれを為すのではなく、それを悪とも思えないようなちっぽけな問題の積み重ねが、大きな問題となってしまう。上流で起こした間違いは、下流に溜まって、大きな問題となる。だから、上流に生きるものには、責任が発生する。

芸能事務所のマネージャーだったはずが、何の因果かグランピング施設の担当者となってしまった「高橋」は、都会に住む自分たちの似姿である。マッチングアプリの成果に一喜一憂し、無責任で横暴な計画に正義感から立腹し、しかしながら上司やコンサルには物申せず、後輩には無責任に退職を勧め、自らの身の振り方も考えてしまう中年男性。それは、おじさんであろうと、新卒の女の子であろうと関係ない。上流の汚れで汚れてしまった身体を、より下流で洗い流そうとする者たちすべての代弁者である。そこで落とした汚れは、どこに行くのか。

「追い出された鹿は、どこに行くんだ」。終始ぶっきらぼうな口調で真意を掴み難い巧の言葉が車内に響き、タバコの煙の中で皆が沈黙してしまう。汚れを含んだ水が、下流で毒と化す。最高に不可解なラストの解釈は観客の数だけ存在している。

MCATM

@mcatm

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