母親の甘やかし、現実逃避のドラッグにテキーラ、スマホにインフルエンサー。依存症の現代的バリエーションを過剰に盛り込んだ「依存の申し子」のようなアリソン(フローレンス・ピュー)。交通事故を起こし、婚約者ネイサンの姉夫婦を死亡させるも、直前にスマホに気を取られていたという過失を認めることなく、悲しみに目を背けて婚約者からも逃げるように依存の日々を送る。
かたや、ネイサンの父ダニエル(モーガン・フリーマン)は、決して順風満帆とはいかなかった自らの過去を補正するように、鉄道模型に没頭する。自らが神として君臨する87分の1スケールの世界のそこここに、夢見た理想の人生を散りばめて慰みとしているが、望もうと望むまいと彼の人生はまだ終わっていない。両親を失った孫娘ライアンを引き取り必死に育てるのだが、肉親を亡くしねじくれて刹那的な彼女の心は、老祖父や学校、社会との軋轢を生むばかりで、ダニエルは途方にくれる。
アリソンとダニエルにライアン、そして元婚約者であるネイサンの人間関係の中心には死んだ姉夫婦があって、その突然の不在がハリケーンのように彼らを引き裂いてしまう。失われた臓器が形を取り戻していくかのように、運命と不随意な行動の連なりが新しいリレーションシップを導くと、それぞれの「依存」の形がはっきりと形を取り始める。特にアリソンが自らの人生を取り戻すには、これらの依存から抜け出すことが必要である。その枷がいかにして彼女を締め付け、どのような闘いと、どのような意志と偶然が、彼女の運命に作用するのかを、観客はつぶさに目撃することとなる。
運命と赦し、依存と自立。かりそめでもいい、鉄道模型を高みから見下ろすような「神の視点」を求めたダニエル。自ら言うように「正しい人間(A Good Person)」であると言い切れるような、そんな人生を送ってきたとはお世辞にも言えない彼が、それでも抗うように自身の手首に刻んだ文字の意味をアリソンに伝える。同じように、自分を捨てた父という枷を手首にはめていたアリソンの、自室に残るピアノと水泳のメダル。低みから見上げる、そんな抗いの記録にも似た物語だった。
年の瀬も近づいてくると仕事もゆとりがなくなってくる。そんなこんなで一日忙しく過ごした。明日から妻がまた実家に戻るので、蒸し料理を振る舞った。夜は映画版『ピンポン』。あの超流行ったやつ。漫画を読むのが苦手な俺が読了した、数少ない漫画である松本大洋の原作を完璧に体現した窪塚洋介が優勝。ARATA(井浦新)が100点なら、中村獅童が150点で、窪塚洋介が500点だった。あの突拍子も無い松本大洋のキャラクターが完璧に再現され、なるほど現実においてはこう見えていたに違いない、と納得させられる素晴らしい演技だった。旬な俳優ならではのキラキラだけでも、演技力だけでもこうはならない。そんな高揚感が持続して、最終盤では思わず泣けてきてしまう、そんな凄い演技の力を見せつけられて興奮した。
『中国の植物学者の娘たち』という映画を観ながら昼食を摂っていたら、仕事が忙しすぎて急遽妻が戻ってくることになり、ウキウキしていた。映画の内容はというと、すっごい上品なエロスが充満していて、鼻頭が痛くなるような心持ち。1976年の地震で両親を亡くし、孤児となったリー・ミンが、実習生として向かった植物園で、植物学者の娘・チェン・アンと出会い、惹かれ合う。
まずは、孤児であるリー・ミンの孤独があり、島で強権的な父親と二人暮らしするチェン・アンの孤独がある。表層には表れないレベルでの孤独が、二人を強烈に引き合わせることとなるのだが、男性優位社会における強烈なミソジニーの発露が、この関係を秘密の中に押し込めてしまうことになる。そうした、社会の空気をまとったスリリングな状況と、「毛沢東万歳!」と唱える九官鳥が象徴する「文化大革命の残り香」みたいなものが、世間と切り離されたような植物園で絶妙にリンクして、二人を世界から孤立せしめる。
エロスは、露骨に露悪的に描かれるのではなく、例えば蒸した松脂をグチュグチュと脚で踏みつける上気した身体、などに象徴的に現れる。普段の生活シーンからは想像もつかないような、彫刻的な肢体を持つチェン・アンの裸体が、二人の分かち難い結びつきに説得力を持たせている。
『15ミニッツ・ウォー』を観てから寝る。ジブチで発生したスクールバスを狙ったバスジャック事件。人質となった子ども達の犠牲なしに解決する任務に就いた特殊部隊と、自らを犠牲にしてバスに乗り込んだ女教師の、実話をベースにした物語。当然「手に汗を握る」展開を期待するのだが、そうは問屋がおろさない。手に汗を握れない。握りたいのに、握らせてもらえない。テロリストたちの頭に照準を当てたまま、アフリカの太陽の下でまんじりともせずに待機していると、政府の連中がモタモタしているうちに状況はどんどん悪化していく。
という、悲しい「上が無能」ものでした。
蒸し料理の魅力に目覚めてしまって、一日中そのことを考えていた。ひとまず、蒸し鶏からトライ。信じられないぐらい 簡単だし、タイマーかけて隣で放置しておけばいいので、仕事中にも仕込めるし、挙句めちゃくちゃ美味いしヘルシー。言うことがない。明日は、漬けておいた鶏をもう一回蒸して、夜は蒸しチーズフォンデュやる。俺は止められない、止まらない。
ケリー・ライカート『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』を観る。A24ではないライカート作品。ダムを爆破する、なんていう大それたことを行うのに、ずーっと計画が杜撰で、気がついたらこの三人の「エコテロリスト」の杜撰さ、引いてはある種の幼稚さ、みたいなものがこの映画の主題となっていた。その幼稚さ、杜撰さが後に、取り返しのつかない事態を招くことになるも、げんなりするような曇り空と同じように陰鬱なまま、現実はゆっくりといつも通り過ぎていき、状況は少しずつ悪くなっていく。
相変わらずの事故邦題。原題の「Night Moves」は「夜遊び」的な意味で、三人がダム爆破のために使うモーターボートに付けられていた名前。資本主義に反旗を翻すべく立ち上がったテロ計画だが、資金面ではリッチな父親に代表される富裕層の力を借りなくてはならなかったり、皮肉が一周して本末転倒気味。崇高な目的の下に集まった三人のはずなのに、一貫して高揚感はなく、いつも小さな疑心暗鬼を抱えながら、心が通い合うような様子も描かれない。結局は、序盤の社会啓発系ドキュメンタリー作家の言う「大きくて派手な計画よりも、小さな身の回りのことから」という提言が、重く重くのしかかってくるそんな顛末だった。
みんなごめん。ここ数年のうなぎ欲を一気に満たしてしまった。
『ヒッチャー』
とにもかくにもルドガー・ハウアーが死ぬほど怖い。こいつは何がしたいんだ。ずっと気持ち悪い。殺したいのかと思ったら殺さない、脅かしたいのかと思ったら脅かさない、と思ったら突然殺しにくる。行動論理が全くわからない。素性も結局明らかにならんのだ。あの伝説の『グレートウォーリアー』(一体なんだったんだあの映画は)直後で、またしてもジェニファー・ジェイソン・リーと共演だったんだな、というか、あのウェイトレスが彼女だとは一瞬気づかない。ナイフを顔にあてがわれて脅される序盤の傑出した恐怖シー ンや、給油所大爆発、車に縛り付けられた女…など、忘れられないシーンが多い傑作スリラー。
『いぬ』
「帽子」という単語は、裏社会で使うと密告者、つまり警察のいぬ、という意味になる
こんな解説から、夜の街を行く帽子の男が映し出される序盤の雰囲気からクラクラする。暗い街を征くムショ帰りのしょぼくれたモーリス(セルジュ・レジアニ)がかぶる帽子に始まり、床に転がる帽子のカットで幕を閉じる本作。キューブリック『現金に体を張れ』といった傑作の向こうを張るような裏切りと勘違いに満ちた脚本も素晴らしいが、なんと言ってもカメラ。白黒を効果的に使い、メリハリの効いた構図も素晴らしいし、叩きつけるような雨の中を進む車を外から中から映す場面も内面の焦りを映し出すような緊張感がある(土砂降りでフロントガラスから前が見えなくなる演出は、ヴィルヌーヴが『プリズナーズ』で引用してましたね)。『モラン神父』があんまりハマれなかったメルヴィルだが、これは大傑作。
『ランジュ氏の犯罪』
ノワールというよりはもう少しほんわかとした雰囲気の漂う佳作だが、これもカメラが素晴らしい。出版社の社長にして小悪党の女たらし・バタラの部屋で、こいつの毒牙にかかる女のクローズアップに合わせて、大音量になる劇伴。なんというか、歌舞いてるなあ、という印象。このどうしようもない無能な社長の事故死をきっかけに、共同経営体制を採ることで経営を持ち直し、自身の作品も売れて夢が叶うランジュ氏が、何故犯罪を犯してしまったのか。中盤まで続く、なんとなく丸く収まっていく人情譚が、なんとも台無しになる夜の虚しさが暗闇にこだましているような作品。
吉祥寺を一人で歩くのはちょっと寂しい。しかしながらいくつか用事があったので、忙しく歩き回る。その前に、少しだけカフェでコードを書く。そのまま、靴を買ったり、ジュンク堂覗いたりしてから、むすこと合流。サイゼリヤでエスカルゴの楽しみ方を伝授してから、二人分のフォーマルスーツを仕立てる。電車で自宅周辺まで帰ったら、歩いて投票へ。もうやることは終わった。
明日、妻が二週間ぶりに帰ってくるので、少し念入りに部屋や台所を掃除する。普段からやってるので、そこまで大掛かりなことにはならない。
夕食を食べながら、フィリップ・ラショー『バッドマン 史上最低のスーパーヒーロー』を観る。むすこが、完全に映画にハマり始めて、この期間に良い映画に出会って欲しいので、なるべくたくさん見せるよう にしているのだが、それにしても今日は大当たり。こちらが下げに下げたハードルの更に下を行くフィリップ・ラショー!!めちゃくちゃ素晴らしかった!!マーベルやDCのヒーロー映画が好きな人にオススメ、というだけではなく、90分弱の上映時間の中に隙間なく詰め込まれたギャグ、張り巡らせた伏線という伏線を要らないところまで回収していく構築力も考慮すると、全コメディファンにオススメしたい(まあ、最低限の元ネタ知識は必要だけど)。パロディ元を、全力でバカにし切っているが、あまりに全力過ぎて結論「この人たち、ヒーロー映画めちゃ好きそうだな」という感想が残ってしまうという奇跡。ラストまで余すことなく楽しい。フィリップ・ラショーの映画が面白くなかったことはないが、それにしたってこの完成度は想定外。また観たい。
余談:絶対観ておいて欲しい元ネタは、『ダークナイト』マカヴォイファスビンダー以降の『Xメン』どれか、『ローガン』『エンドゲーム』です。意外と少ないけど、『エンドゲー ム』を最大限に楽しむためには、それまでのMCU全作観ておく必要があるから…(略)
小さな滝が飛沫をあげるその奥にしゃがみこんで、一心不乱に股を拭いている少女。じぐざぐ道を征くキャンピングカーからゆっくりと、まるで逃げるように動くカメラ。リズミカルだがゆっくりと力強く回る風力発電機の奥の陽光。画面の中心に収まるべきものは不安定に揺れ動き、クローズアップが詳細をはぐらかしたり、いざ事が起こってもその核心はぼんやりと夜の闇に溶け込んだりする。
こうした図像演出が単なるギミックに落ち着かないのは、物語の構造も視覚的な特徴と相似形を成しているからである。赤くくすんだキャンピングカーで田舎町を巡る父と娘。移動映画館を営む傍らで、車内でDVD-Rに焼いた海賊版のポルノを売って生計を立てている。そんな先の見えない爛れた貧困生活を何年も続ける中、初潮を迎えて大人への階段を登り始めた少女は、父親に「海へ行きたい」と告げる。その後、二人きりの陰鬱な旅路を経て、いくつかの寂れた街に到着するが、微妙に遠かったり、事故に行く手を阻まれたりして、「海」という中心への旅路は永遠とはぐらかされているような気分になってくる。
しかし、そもそも「海へ行きたい」とは何か。単に「ここではないどこか」を指した符牒なののか。それとも「海」であることに意味があるのか。それをうっすらと理解するチャンスが訪れる頃には、物語は最終盤に差し掛かっていて、にも関わらず相変わらず主題がくっきりと鮮やかに浮かび上がるようなことはない。まるで、要所で流れる劇伴のアンビエントな響きのように、ぼやけて、溶けていく。
そうした曖昧な身体を持った物語の全容が照らされることはないまま、しかし肉体を切りつけると血が溢れ出すように、細部の情感はところどころで生々しく押し寄せてくる。まるで、昨日の出来事は鮮明だが、全体の意味を捉えるのは難しい「人生」のように。そして、数少ない「全体」と「細部」が合致する瞬間に、今まで静かに操作されたカメラがぐらぐらと揺れ、何かが起こっているかのように見えるのだが、その突端も珍しく声を荒げた父親の「塩取ってこい!」の一言だったりするから、この身体には想像の余地が限りなく残されている。
父親と2人きりのキャンピングカーでの夜。性的な不穏さもまとったまま寝支度を整えると、少女は小さな機械を取り出す。スイッチを入れると電飾で彩られたチープな星空が、彼女たちの狭く汚れた暗い車内を照らす。一歩外に出れば、トラック運転手が娼婦を買っているようなスタンドの片隅で、この空虚で過酷な世界は小さく、しかし内側から確かに光を発しているのだ。
いつも想田監督映画のサブキャラクターとして大小様々な役割と担ってきた「猫」が、今回ついに主役。しかしながら、当方猫には全く興味がないため乗れるか不安だったのですが、問題なし。能動的に観れば観るほど得られるものが大きくなる。そんな「観察映画」の最新版として、いつも通り楽しく観ました(俺は『Peace』からずっと、ほぼ「謎解き映画」として観てる)。
想田監督夫妻がNYから移り住んだ岡山県牛窓の「五香宮」という社に住み着いている大量の野良猫を始点に、マクロな視座を以て社会を批判的に見つめ直す、というスタンスを取りながら、巧妙な編集の賜物として複数の視点の可能性が散りばめられる。序盤から、癒しを求めて野良猫に餌付けする女性が出てきて、ぶっとい社会批判にたどり着くが、この映画が行うのはこういう無邪気な人たちの批判ではない。一方で、増えすぎた野良猫を避妊・去勢していくという町の決断は、無垢な子どもの「増えてもいいのに。かわいいから」という声に対して決定的な力を持たない。
老人の多い牛窓。公園に関わる人も様々で、毎日ボランティアで草木の手入れをする人や、去勢手術を行うために野良猫を捕獲する人など、その多くが牛窓に生まれ、戦争を経験している。こうした老人たちを繋いでいるのは地元の古くからの風習や宗教であって、それが行動倫理の一部になっていることが確認できる町の寄り合いのシーンが一つのクライマックス。ここで、野良猫の問題と、地域の倫理問題が絡み合い、「なんか、うまくいかないもんっすね…」が表出した後、うまくいかないまま妥協案が提示される日本的な政の場が現れる。でも、それって、いつの間にか戦火に突き進んでしまった社会の「不具合」と同根でもある。…でもねえ…。悪い人は一人も出てこない。それぞれが、町のそれと複雑に一体化した自分の価値観に向き合い、答えを出していく。
ところが、ここに刺客が現れる。この倉敷から来た「よそもの」が、カメラを片手にこの町と野良猫の関係性について、よそものならではの鋭い角度から批判的な言及を始める。想田監督の「観察映画」には、こうした場を一転させるキャラクターやシチュエーションが度々登場する。『港町』の「死のうとした」婆さんや、『Peace』の「橋本さん」、『牡蠣工場』の若い奥さん、など。ここでも、もう一人の能力者=観察者の出現に、急速に場がピリつき、話が振り出しに戻っていく。
成り行きで当事者となってしまったプロデューサーの柏木さんの太極拳や、想田監督本気の「困ったなあ…」、ディザスター映画としても手に汗握ったりと退屈している暇などない。この簡単には結論が出せない感じに、思わずイスラエル・パレスチナ問題を想起してしまった。こうして、映画を扉にして、心にいくつもの視点を宿らせる事のできるところに、「観察映画」の魅力が詰まっている。
これを「アクションコメディ」と呼ぶのは、『パルプフィクション』をそう呼ぶのに近い。ほぼ詐欺である。「天使の処刑人」も、ど直球の詐欺案件。作りとしてはチュルヒャー兄弟『ガール・アンド・スパイダー』とか に近い感触の映画だと思う。
とは言え、物語は、タランティーノばりにケレン味たっぷりのガンアクションから幕を開ける。そこでのいくつかの些細な違和感は、2010年代的なケレン味の中で回収されるかと思いきや、シアーシャ・ローナンとアレクシス・ブレデルによる「美少女殺し屋コンビ・バイレット&デイジーの日常」という今では「ベビわる」に継承されるスキームの中で、じわじわと膨らんできてしまう。ドレスが買いたいから割りの良さそうな殺しの仕事を請ける、というところまではわかるが、組織のメンバーであるラス(演じるはダニー・トレホ)と手遊びしている姿を、従来の「ケレン味」で処理するのは難しい(二度言うが、演じるはダニー・トレホだよ)。
次なる処刑のターゲットが留守だったので、銃を持ったまま眠りこけてしまう二人。帰ってきたターゲットは、こともあろうに眠る二人の殺し屋にやわらかな毛布をかけて、自分も眠ってしまう。完全にプロ意識の欠落した「凄腕」の殺し屋二人であるが、その二人が眠るソファのすぐ後ろの壁には、ターゲットの娘とおぼしき写真が飾られていて、さっきまで留守番電話でターゲットを罵倒していたのも、この娘なのであろう。この不在の娘の写真は、執拗に二人の間に配置される。まるでそこにターゲットと対峙する「3人の娘」がいるようにも見える。
劇伴はほとんど鳴らないため、静寂の中、ターゲットと「3人の娘」の対話が始まる。組織に対して盗みを働き、追われる身になってしまうターゲットは、同時にライバル組織の方にも同じような裏切りを行っていて、都合二つの対立する組織に追われている状態。ターゲットが危機的状況に陥る度に銃弾を使い果たすバイオレットとデイジーは、その都度、近所の闇ショップまで銃弾を調達にでかけなければいけない。こうして、処刑までの時間は引き伸ばされ、弛緩していく。
無垢なデイジー(シアーシャ・ローナン)が、ターゲットとの対話を通して仲を深めていく一方で、神経質なバイオレット(アレクシス・ブレデル)はその悪夢的な時間感覚の中でいくつものオブセッションに囚われ、自分を見失っていく。かつて失ってしまったパートナーのローズ、何かを足で踏みつけにする事(「けんけんぱ」のことを、英語では「Hopscotch」と呼ぶらしいです)、飛行機の影と事故。この「容易い仕事」にいかなる結末が用意されているか、も大変な関心ごとではあるが、それ以上に気になるのは、仕事を終えた二人の「美少女殺し屋コンビ」は、何事もなかったかのように、あの部屋での生活を再開させるつもりなのだろうか、ということ。
章立てになっているこの物語が、9章だけ「9A」と記されていたことに注意したい。いくつかある結末の一つで、個人的には一番突拍子もない展開がチョイスされたと感じたが、肝心なのはこれが「9B」であっても「9C」であっても、続く「One More Thing」はきっと変わらなかったであろうこと。それは、ドレスを着たデイジーに、ターゲットが「エイプリル!」と怒鳴った時点で決まっていた結末だったはず。バイオレット、デイジー、ローズ。そして娘の名前は、エイプリル。まるで春の小さな花壇を見ているような映画だったと思う。
6〜7年ぐらい前、沖縄の小さな離島で、観光地からちょっと離れたところにある小路を進んだところ、不思議な空間に入り込んでしまったことがある。不揃いな石が数個ずつまとめられた「塔」が、ぐるり並べられていたその光景に、誰かが(俺かもしれない)「入ってはダメな予感がする…」と呟くと、皆同意してそーっと退出した記憶が残っている。よそ者には与り知らぬなんらかの法則。そういう「不可侵な何か」の存在を信じさせる雰囲気というのは、確かにある。そして、そういったものに対する無理解や生来の無神経から、不敬を働く連中というのも、確かに存在している。
ケヴィン・コー監督による台湾映画『呪詛』は、土着信仰や民間伝承を取り扱う、所謂「フォークホラー」の一種。TiktokやYouTubeで配信されているような主観視点を主軸に、「決して入ってはいけない場所」を侵してしまった人々が体験する自業自得な悲劇 を描いています。恐怖に心から震え上がった上、大変厭な気分をしばらく引きずっる羽目になったのですが、一方で大量の謎で構築された劇中世界には、思わず四度も観てしまうぐらい心惹かれてしまった。ただし、人によっては数日落ち込むレベルのショック映画でもあるので、ご利用にはご注意あれ。
ということで、ここでは映画の中で描かれていたことをベースに、気になったポイントと、現時点での個人的な解釈、「で、結局何だったのか」を自分なりにまとめておきたいと思います。なので、これ以降は大ネタバレ大会。映像の中で明確になっていなかったり、気づけていないヒントも沢山あるはずなので、その辺を補うため、邪推妄想と深読みを接着剤に組み立てたのが以下の文章です。俺自身、必ずしもこれが正解とは思ってないので、「こういうふうに考える人もいるのか…」ぐらいの温度感で読んでいただけたら幸い。
死生有名
「喃喃怪(ナンナンクワイ)チャンネル」という動画配信チャンネルを運営するアーユエンとアードンのチェン兄弟、そしてアードンの 恋人であるルオナンが、「超常現象調査隊」という企画で兄弟の祖父が暮らす村(チェン氏宗族村)に潜入。兄弟がしきたりを無視して禁断の地下道に踏み入れるという過ちを冒すと、深刻な「呪い」が発動します。では、彼らは行った行為は、実際どのような意味を持っていたのか。また、直接地下道には入らなかったルオナンやその娘ドゥオドゥオが、未だに呪われているのはどうしてなのでしょうか?
三人が訪れたこの村では、東南アジアから伝わる密宗に由来する「大黒仏母」という邪神が崇められており、その信者たちの素性や呪文の意味については、劇中、ブラーフミー文字を読解できる雲南の密宗の和尚が語りで解説されています。この仏母は様々な業障をもたらすため、信者は自らの名前と、供物や生贄、信者の身体の一部を捧げる儀式を行い、村の地下道に仏母を封じ込めています。その土着の儀式の最中、禁断の地下道に踏み入ったチェン兄弟は、封印された仏母の顔を覗き込むと呪いが発動し、その恐怖の只中で半狂乱の二人が様々な結界を破ることで、こともあろうに村に封じ込められていた呪いを外部に解放してしまいます。その後、主人公であるルオナンが「禁断の地に踏み入ったことで決定的に呪われてしまった娘を、視聴者と呪いをシェアすることで救おうとする」という物語を、配信を通して我々に語っているというのが、この映画の基本的な構造になっています。そのため、彼女が頑なに撮影を止めないのは、呪いの実態を視聴者である我々に可能な限り正確に提示したい、その上で呪いを共有したいという邪な意思があるからだと思っ ていました。
大黒仏母の要求に応じる形で村人が唱える「ホーホッシオンイー・シーセンウーマ」という呪文には「自らの名前を捧げて、共に呪いを受ける」という意味が込められています。祈りの仕草は、密宗の八方天へのものとよく似てはいるのですが、「幸福や功徳を集める」という意を持つ最後のポーズが、それとは真逆、すなわち「拡散」を示す手印に変形しています。かの村では、住民がみな祈りを捧げて呪われる代わりに、一人あたりの呪いの効能を薄める、という運用が行われてきました。この呪文は「禍福倚伏 死生有名」がなまったものであると、密宗の和尚によって語られます。『論語』において、孔子は「死生有命」、つまり「人の一生は、天命によって決められている」ことを説きました。「禍と福は交互に訪れるが、人の一生は天命によって決められている」。ただ、仏母の顔を隠す布に書かれているのは、この「死生有命」をもじったと思しき「死生有名」の文字。「運命は、名前によって決められ、決して逃れることは出来ない」と解釈するのであれば、それは名前を収奪された人々、そして他ならぬドゥオドゥオ=チェン・ラートンの運命と一致してはいないでしょうか。
顔
子どもを含む多くの人々の悲鳴や悲痛な唸り声が、仏母の、それも顔の奥から聞こえてくるような描写から、呪われた人々の所謂「魂」は、和尚曰く「呪いの力が集まる中心」たる「顔」の深淵に幽閉されているのだと推測されます。顔の中心にあるこの「深淵」が、すなわち「口」を暗示していると考えると、業障としての「多歯」の持つ意味合いが浮かび上がります。ビデオの謎を探るチーミンからの映像にも、彼の歯が抜ける場面が収められています。苦しむドゥオドゥオも、「かゆい」と叫びながら地下道を逃げ出したアーユエンも、大量の歯を生やした口内からボロボロと歯を落としていました。彼に噛まれたルオナンと、ドゥオドゥオに噛まれた幼稚園の友達の、腕に残る奇妙な噛み跡の一致。大量の歯が不快なかゆみを伴って抜け落ちていく症状の果てには、この仏母の「口」のイメージが確かに待ち構えています。
いくつかの場面で印象的に登場する「虫」も、仏母に名前を奪われ、かの深淵に幽閉され悲鳴を上げる人々の呪われた魂、比喩ではなくまさにそのものなのだと思わされる場面にいくつか遭遇します。例えば、ドゥオドゥオがトイレで吐き出したパイナップルの中に含まれていた葉を食む虫。あの時点で、数度に渡る侵入を成功裡に、そもそも生まれた時から捧げられていた名前と共に、仏母はドゥオドゥオの魂を奪い取りました。また、彼らの行動する場面場面で現れる多くの虫、これは既に名前を奪われている人々の魂であり、かの村の人々は、こうして魂の成れの果てとしての「虫」と共に生きていることが推測されます。村の様子を映すアーチエンのカメラも、皿に集めた虫を痩せた植物の上に落としている血色の悪い男性の姿を捉えています。彼は、虫を獲っているのではなく、虫を緑に、土に還しているように見えます。
仏母によって収奪された名前は、使うことも思い出すことも決して許されません。それを行ってしまったり( 考えてみれば、名前を「思い出さない」って結構キツい)、呪いの中心に触れてしまった者は、多歯、出血、皮膚の爛れといった強烈な業障の果てに、自らの名を発しながら自ら死に向かうことを強要されます。その場合、多くは、顔面を破壊することで亡くなっていくことから、この「顔の真ん中に穿たれた穴」というイメージが、死因と密接に結びついていることがわかります。交通事故で死んだルオナンの両親(名前を呟きながら車に激突する父親も、車が来なかったら縁石に頭を打ちつけていたでしょう)や、歯をボロボロとこぼしながら「聞くな!」と叫んで抵抗したアーチエン(聞かれていたのは、おそらく名前)は別として、燃える病院(宗教画参照)の中で、縊り死んだ精神病院のウー院長や、ご丁寧にドゥオドゥオの本名入りのお守りを買うことでアツアツの溶けたガラスを口(顔のど真ん中!)に差し込んで周囲を恐怖のどん底に陥れるお節介な施設職員・シアさん。禁断のビデオを観て、(頭、とかではなく)顔の真ん中を撃ち抜いた二人の警官。そして、ルオナンを含むその他の多くは、顔面を強く打ち付けることで死んで行くのです。
隠れて儀式を撮影していた一行を発見した経文の少女は、天井に大きな宗教画が描かれている最初の儀式を行った部屋に、女性であるルオナン一人を案内します。ここに描かれた大黒仏母の姿にも、「顔」の機能と役割が刻印されているように思えます。後にドゥオドゥオが仏母の奸計によって禁断のビデオカメラを観てしまった仏像の間にも似た、赤く光るこの部屋では、天井の仏母の顔の真ん中から血のような赤い液体が滴り落ち、もぞもぞと蠢く影が虫を連想させます。多数の腕を持つ仏母の姿が中心に大きく描写され、地下道にもあった指差しを行う地蔵や、炎上しながら四隅を占める雲南の密宗の寺によく似た「廟」、壺を一杯にした虫、切り取られた首などがモチーフになっており、インドのカーリー像や鬼子母神を想起させます。
あの不気味な村人たちは、こうして仏母を村の中、地下道の中に封じ込めておきながら、親戚の子どもたちを生贄にして、仏母の影響を少しずつ薄めながら延命していました(6年前の時点ですでに、かの村には、子供の姿がほとんど見えません)。チェン兄弟とその祖父の会話は、兄弟が村に来たこともないし、祖父とはお互い直接会う機会がなかったか、もしくは極端に少なかったことを示唆しています。村人たちは、保身のため、業障を村の中に封じ込めると同時に、少なくとも仏母の影響が流出することを危惧して、外部の人間が儀式に参加することや、ビデオに撮られた映像が公開されることにも難色をしめしていました。ルオナンも追い返されるところでしたが、彼女の妊娠を看破した長老である老婆の鶴の一声で許可されます(手相を見て確認出来るのかは全く知らんが、そこはケレン味)。仏像をタイヤに巻き込んで立ち往生した時のルオナンの一回目の嘔吐が、普通につわりだった可能性もあります。ルオナン自身は外の人間ですが、ルオナンの胎内にある子ども=ドゥオドゥオは、チェンの血を継ぐ「親戚」。「仏母も喜んでいる」と、長老も告げています。そして、意図は不明ですが、アードンは愚かなことにお腹の中の子どもの名前を「チェン・ラートン 」として欲しい旨をルオナンに告げており、この時点で、ドゥオドゥオの本名は仏母に捧げられてしまいました。
チェン兄弟の祖父が言うように、兄弟による冒涜が起こるまで、この呪いの効果は村の中に限定されていました。少女の抵抗を振り払ってビデオカメラを外に持ち出し、6年間の空白、つまり入院と出産、「怪物」を恐れて娘を里親に出した後、ようやく取り戻した正常な精神を以て自らの母性と向き合ったルオナン。子ども部屋に装飾した「Welcome」が、最初「We come」になってるという厭な小ネタも挟みつつ、里親であるチーミンの施設からドゥオドゥオを引き取ると、忘れているのか、強い覚悟があるのか、諦めていたのか、舐めているのか、早速本名を教えます。二人がおどけて「チェン・ラートン」と二回ずつ読むと、真っ二つに割かれたゴキブリを伴って居間の窓ガラスが割れ、何かの侵入を感じさせるのと同時に、ドゥオドゥオの身体が何かに侵されたことが、左目の血豆のようなものから推測できます(仏母による悪趣味な登場演出は、勝手に動くルンバや、もそもそと蠢く肉塊などでも存分に発揮されます)。かくして、「名前」を巡るルオナンとその娘ドゥオドゥオ=チェン・ラートンの勝ち筋の見えない戦いが勃発します。豪快に我々を巻き込んで。
鏡
村を出たルオナン親子の往くところ、悪者もしくは虫が現れるとき、多くの場合、そこには鏡が置いてあります。娘を迎え入れた夜、突然の停電で暗闇に包まれた家に、何らかの存在を感じるシーンでは、叫び声と共に開く空のエレベーターの奥にそれはありました 。ルオナンの職場にも大きな鏡があり、そこでも大量の虫が発生します。ドゥオドゥオが屋上から飛び降りるよう指示されている時も、背後の壁には鏡が立て掛けてあるのがチラッと映り込んでいます。また、自宅でドゥオドゥオの指示の下、上の方にいるらしき大人の目には見えない「悪者」とルオナンが手を繋ごうとするシーンでは、気づくと映像自体が鏡越しに撮られているのがわかります。かの村を目指すチーミンと親子が、無限に続く道に閉じ込められてしまうシーンでも、ボロ布のような「何か」が現れるのはカーブミラーの脇。直前に観た焼き殺されるアードンの映像からの連想で、吊り下げられた焼死体に見える「何か」は突然姿を消すと、エンストした車の上から三人を襲い、ルオナンとチーミンは例の呪文を唱えて窮地を脱するのですが、こうして少しずつ呪いは二人の身体を浸していきます。
一方、アーチエンが何度も意味ありげに話す通り、地下道にも大量の鏡が設置されています。地下道の内部構造を正確に把握するのは困難ですが、現段階では、供え物には常にそれを映す鏡があり、天井の宗教画にも描かれていた「指を指す仏像」の指の先にも鏡があり、いくつかは合わせ鏡のようになっていることが推測されます。アーチエンの蹴り壊した地下道の扉の裏側にも鏡が貼ってあり、割れて破片となっているのも確認できます。合わせ鏡が、仏母の深淵を想起させることもありますが、いくつかの円が対角線上に配置されたあの「符号」の作りにも関連が伺えます。鏡と鏡、それを指差す仏像が、中心を垂直に走る線分に断ち切られているという図は、邪推がすぎるきらいはありますが、この村で運用されてきた封印の仕組みとして一つの視点を提供しているのではないかと思います。チェン兄弟による侵犯がその多くを破壊したことから、仏母の呪いは解放されますが、終盤の再突入における、鏡を割ったり、供え物や仏像を正しく配置し直すルオナンの行動は、その解放を、意図的に、徹底的に、行ったものです。これらの行動は、6年前に出会っていた雲南の和尚によって指南されているか、ヒントを受け取っていたはず。「父親になる気分を味わいたい」という随分と迂遠なモチベーションから呪いの調査を進めていたチーミンよりも遥かに早く、ルオナンはすべてを知っていて、その上でその事実を伏せていたのでした。チーミンにも我々にも。
視線
状況は急速に悪化していく中、ルオナンは突然謎の道士の元を訪れます。あまりの説明のなさに、以降続くルオナンによる視聴者に対する数々の裏切りの端緒が、ここからも見て取れます(おそらく、両親との会話に出てくる「道士」だとは思います)。「やっぱり来たか。これが運命だ」と嘯く道士は悪魔祓いを開始して、小さいドゥオドゥオにはあまりに辛い7日間の断食を命じます。その断食を怠れば、道士の奥さん曰く「私と師匠の命に関わる」問題が生じます。しかし案の定、あまりに苦しそうな娘の姿に耐えきれなくなったルオナンが、缶詰のパイナップルを一切れ食べさせると、体調は一気に悪化。皮膚に血に溢れる蓮のような疵を負い、消耗するドゥオドゥオ。急いで向かった先で、うずくまって血を吐くアーチン師匠はおそらく死に、助手である奥さんが「後ろ向きババア」となって俺たちを恐怖のどん底に陥れた後に絶命すると、ドゥオドゥオは天井の悪者に捉えられたかのごとく宙に浮き、そのまま落下して意識不明になり緊急搬送。つまり、ここでも禁忌は破られ、それによって道士達の命が奪われることで、回り回ってドゥオドゥオに対する呪いの力は強まってしまったわけです。
鏡のないところでは、仏母はどのようにして現実に干渉するのか。「視線」がそのヒントになりそうです。この映画では、アードンやアーチン師匠の妻などの呪われた人物や、村やアーチン師匠の家に置かれた仏像の多くが、こちらに背を向けた状態で登場して、それが一斉にこちらに振り返るというホラー演出が、大変効果的に機能しています。シンプルに、めちゃくちゃ怖い。しかし、この演出は同時に、仏母が現実に干渉する際に「視線」が生じている場面を描写しています。例えば、仏母に触れて正気を失い、供えられた髪の房を食べながら地下道を走り回るアードンは、その時点では仏母が乗り移ったような状態になっています。アーチエンに対して背を向けてから振り返るタイミングで、穴の空いたその顔を顕にしながら襲いかかってきますが、この後、実際に肉体的にアーチエンを襲う描写は続きません。代わりに、次々と鏡が割れ、混乱する中、6年後に幼稚園で撮影されたドゥオドゥオに伸びる手と同じような手が、大量に伸びていました。アーチン師匠の家の場合、少なくともカメラに映っている範囲には鏡が見当たりませんが、代わりにこちらに背を向けた沢山の仏像があって、(俺たちが愛してやまない)例の「後ろ向きババア」がこちらを向いて襲いかかる瞬間、ゴロゴロと大きな音を立ててこちらを一斉に振り返ります(儀式の部屋でも同じような状況がルオナンを襲い、その時は経文の少女が頭を鷲掴みにして例の呪文を何度も唱えます。ルオナンを、もしくはお腹の中のドゥオドゥオを、救おうとしたのでしょう)。
そして、視線と言えば、カメラもまた、ある種の「視線」として機能している可能性があります。うさぎのぬいぐるみに仕掛けられたカメラという「視線」は、ドゥオドゥオと「悪者」の接続点として機能しているかもしれません。瀕死の状態で逃げこんだ病院で、重体だったはずなのに夜中一人ベッドを抜け出すドゥオドゥオ。何かに手を引かれるように歩いた先には、6年前に経文を書かれていた少女がほぼ全裸で横たわっていたのでした。生贄を食い散らかしてきた仏母にとって、貴重な数少ない残された子どもたちが合流します。病院の監視カメラの映像は、道行くドゥオドゥオの姿を捕獲し続け、そこに居合わせた多くの人の「視線」はドゥオドゥオを綺麗にスルーし続けます。
意識不明に陥ったドゥオドゥオが、「パイナップルとうさぎ、それにぬいぐるみ」、好きなものを3つうわ言のように呟きながら、必死に悪者と戦おうとしているその様子を医師から聞かされると、ルオナンはいよいよ覚悟を決め、映画の冒頭にみられるように自宅からの配信を開始します。同時に、いよいよ我々は、この物語の当事者に引きずり込まれるわけです。
記憶
こうして、仏母は自らが封印されたあの地下道から、遠く現実世界への侵食の手を緩めようとはせず、母と娘の戦いは一方的な敗色が濃厚になってきます。この、呪いとの無謀な抗いを追いながら、この物語は、最終的な着地点である「記憶」を巡る哀しい諦念に向かって進んでいきます。
身体中に経文を書いたルオナンは、入院中の少女の耳を切り落とし (セキュリティ甘すぎなのは、やはり「視線」の欠如?と大甘解釈)、封鎖された無人の村に到着、地下道に向かいます。6年前の夜、少女と同じようにパンツ一丁で身体に経文を刻んだ人々が、魂を抜かれたような虚ろな表情で立ち尽くしている姿を背に、狂乱のルオナンは村を脱出しました。その様子や封鎖された入り口を見るに、仏母の解放に伴って住民がすべて死亡していても不思議はないぐらいに人気のない村で、ルオナンはいよいよ、大黒仏母の「虚空」に挑みます。しかし、それは抵抗ではなく、完全な服従。娘の呪いを軽減するために、前述したような計画的で徹底的な仏母の解放を行い、より多くの生贄を捧げるために働きます。結局、赤い目隠しをして仏母の中心をカメラに収めるも、圧倒的な仏母の呪いの力の前に、結局頭を打ち付けてしまうルオナンですが、それも覚悟の上だったはずです。
「現実は、自分の想像に合わせて変わっていく(あなたの見方次第で、世界が少しずつ変わる)」という精神科のウー先生による語りは、いくつかの重要な視点を提供します。何度も例証した通り、一つには、この物語の語り手=ルオナンが「信用できない語り手」であることを示しています。ルオナンはわかっていることを不確かなものとして語り、その結果、我々はルオナンの見せたいように作り変えられた物語を体験しているのです。この配信は、「みなが幸せになるよう、呪文を唱えて欲しい」という映画冒頭の語りとは異なり、実際は「みなが不幸になっていく」という結果になることが暗示されています。
彼女の詭弁の中心にある のは、両親の愚かな行為の報いを受け、産まれる前から呪われた主体であるドゥオドゥオ。彼女を救うために奔走した記録を挿入しながら、同時にルオナンは現在の自分を配信に晒します。再び彼女との生活を開始しようとしていたルオナンが、そのタイミングでわざわざビデオカメラを買い、そこから全ての記録を開始して呪いの配信に備えているということは、ここに至る状況を彼女はある程度予測していたということになります。この映像は、残される娘に対する遺書のようなものとして撮影されていたのかもしれないし、己の恐怖心の克服のために、あえて彼女の冒した禁忌に向き合うという意思表明なのかもしれません。しかし、他に目的があるのだとしたら?
そこで、「記憶」の問題は、実はずっとこの物語の中心に据えられていたことに気が付きます。「あなたの見方次第で、世界が少しずつ変わる」という言を思い出してみましょう。ある人から見れば人でなしのような邪な振る舞いを以て人々を不幸にしようとしたルオナンは、しかし、この配信における短い記憶の中では、やはり「愛の人」でした。この現時点での自分の娘に対する愛が、どこかでつながっていて欲しい、という期待を捨て去ることが出来ないルオナン。娘を見た時から母性に目覚めたルオナンが、「私と暮らさなければこうならずに済んだかも」ということをわかっていながら娘を引き取り、二人の思い出を大事に育もうとします。「好きなものを3つ思い浮かべて」と、仏母に対する抵抗の時間を、「幼少期のあどけない記憶」と無意識にすり替えようとします。ルオナンは娘に「私との思い出を覚えていて欲しい」ので、呪われ、衰弱したドゥオドゥオと、浜辺で盗んだ凧を揚げるのですが、このか細い凧の糸は切れてしまうかもしれない。現況に合わせて、ビデオの役割も二転三転します。この「記憶」にまつわるルオナンの執着は、いよいよ生命の危機が迫る中、娘を守るために、自らの、そして我々視聴者の命を捧げる悲痛な覚悟と引き換えに、最終的には表面上放棄されてしまいます。施設に置いてきたぬいぐるみ・ワンジーの代わりに、犬を飼うという約束を果たし、ドゥオドゥオの生活用品一式を犬と共に施設に託したルオナン。カメラに向かって「自分の名前や、ママを忘れて」と訴えるルオナンの思いが成就するのであれば、その映像をドゥオドゥオが目にすることはないという哀しい場面。ここで、記憶の中の「愛」は、決定的に忘れ去られることを望まれているのです。
祈り
先日発表された続編では、多数の犠牲を伴いつつ一旦救われたドゥオドゥオの(おそらくは悲惨な)未来、そして、この動画が拡散されたことで発生した社会の混乱が描かれるのではないかと思います。その行為=呪いの配信が、呪いを希釈することでドゥオドゥオを救ったのと引き換えに、大量の被害者を生み出したはず。そこに我々は、既に現実の我々と切り離された「フィクショナルな我々」の姿を観ることになるのではないでしょうか。当事者性を奪われた我々が、フィクションという虚空の中に置き去りになるという構造も、仏母による呪いの構造と相似形を成していて興味深いところ。そして当然、この「カメラ」という外挿された「記憶」が、引き続き重要な問題となるはずです。
ラストでは、施設ではないどこか別のところにも見える場所にいる、元気なドゥオドゥオの姿が確認できます。ルオナンの決死の努力が完全に無駄だったわけではなかったことにほっとしつつも、果たしてどこにいるのか、ドゥオドゥオがカメラに語る意味深なセリフは、明確な意味を掴みづらいものとなっています。「お家はお城から遠い」「バスに乗りたいけど、お城に行くバスがない」「お城が泡になって消えちゃったからね」。「思い出すことすら許されない」という地獄のような呪いに対して、仏母の視線を転用し、「記憶」を「記録」に焼き付けたルオナンのささやかな抵抗。自分には無理だったとしても、娘が生きて、いつか呪いが解除される日が来たのなら。このビデオには、ドゥオドゥオ=チェン・ラートンとその母親の抵抗の日々が、かつて生きていた父親アードンの自宅に見切れる写真や生きていた姿、そしてその死に様が、確かに映っています。「みなさんは、祈りを信じていますか?」。抵抗は悲惨に幕を閉じたように見えますが、ドゥオドゥオの未来における蹂躙の後へ、こうしてカメラごしの「記憶」が一つの希望をつないだようにも見えるのです。