昨晩は久しぶりに出社して、軽く忘年会。今日は大掃除して、楽しみにしていた『名探偵津田』第三話を観る。期待以上の出来で、体感10回近くあった名シーンのたびに、家族でひいひい言って笑った。これだけの大人気コンテンツになった今も、心の底から本気で嫌がる津田の態度には貴重なものがある。今回はミステリー的な破綻も少なく、心の底から没頭できた。すっごく周到にネタバレを避けてきて、みなさんにも余計な苦労させたくないので、俺もネタバレはしない。毎回着実にレベル上げてくる製作陣には敬意を表したい。次も期待してます!
『午後3時の悪魔』
見逃していた短編を消化しようと、Prime Videoで何本か観る。『午後3時の悪魔』はその中でも異色の出来。今年『STRANGERS』という長編が公開されていて、ちょっと気になっていた池田健太監督作。8ミリフィルムの荒い画面に、計算づくのショットがバシバシと決まっていく。中身は異様に静謐で、セリフらしいセリフも決して多くなく、後ろ暗い気持ちを持つものにとって、「視線」とはかくも恐怖せしめるものなのか、ということを淡々と突きつけてくる。
茶封筒に入った金の行き来があり、それに伴って言葉には出来ないような閉塞感に押しつぶされそうな女性。彼女が「ただ佇んでいる影」に怯えながら、東京を徘徊する。冒頭から続いた静寂は終盤で唐突に切り裂かれるのだが、その刃物のようなノイズが物語には直接関係ないところで鳴っているその感じこそが、この映画のどこか浮世離れした佇まいと重なって見える。
ダニエル・ゴールドハーバー『HOW TO BLOW UP』
環境テロリストによる石油パイプラインの爆破計画。細かく練り上げられた計画に従って行動する若者たちが、「どのようにしてパイプラインを破壊して、プロテストを成し遂げるのか」を描 いた物語。不明の男女がテキサスの田舎に放棄された建物に集まり、自己紹介もそこそこに爆弾を製作し、石油パイプラインの建設地に運び、アリバイを作りながらそれを爆破させる。計画の進行を見守りながら、彼らがこんな犯罪計画を成し遂げる背景が時折挟み込まれるが、それは単なる背景説明に留まらず、この計画の成り立ちと顛末を細かく説明してくれる。
犯罪と正義の危ういバランス。確かにこの物語は我々に「考えることを強いる」のだが、その一方で明らかにこの計画と実行の一部始終に興奮させられてる自分がいることは否定できず、そういう意味ではかなり「不謹慎」な映画。ケリー・ライカート『ナイトスリーパーズ』に酷似しているが、描きたいことがほぼ真逆だと思う。この世を支える虚構の倫理に、ささやかだが有効な一撃が加えられている。
監督はあれだ、『カムガール』(未見)のダニエル・ゴールドハーバー。ソチ(すっごい見たことないスペル)役のアリエラ・ベアラーが、脚本やプロデュースまで参加しているんですね。このコラボレーションが続くのであれば、凄まじいチームが出てきたなーという印象です。
Remixで出来てる当サイト。Remix v3は、React Routerに統合されるらしいですな。最近、仕事でもRemixに少し触ってたら、v2.15.0でフューチャーフラグがいくつか立ってたもんだから気になって調べてみたんす。基本、Remixというのは、React Routerの便利なラッパーであり、同時 にVite Pluginであるので、今後混乱がないよう、開発をReact Routerに一本化するとのこと。なので、移行作業をトライしてみた。
つくづく思うんだけど、こういうのワクワク面白がってトライしたくなっちゃう人じゃないと、エンジニアって向いてないかもしれないですね。
『あるいは、ユートピア』
夜はPrime Videoで『あるいは、ユートピア』を鑑賞。またしてもロメロ的な弛緩した時間。謎の生物によって危機的状態にある世界で、ホテルに籠城して投げやりに生を全うしようとする人々。自家発電も、浄水施設もあり、災害用備蓄も潤沢なホテルなので、大きな切迫感はないまま、都合、問題は毎日顔を合わさざるを得ない人々の人間関係に絞られてくる。
この問題が発生することを見越して、著名な小説家である牧(藤原季節)が、三つの原則「非暴力」「非干渉」「相互扶助」を掲げると、その方針に不満を持つ松岡(渋川清彦)の脊髄反射的な猛反発に遭う。不気味なウェットさで、「家族」の大切さを解くこの男の得体の知れなさ。この三つの原則は彼らの小さな世界を護り、同時に彼らをこの世界に縛り付けることとなる。薄らとした距離を作り出すこの透明な壁に、この狭い世界が正当化されていく。
物語もよく書けているし、役者も手練だらけ(特に、完全に浮世離れした無害と有害の境界線上にある男を演じた渋川清彦と、女装癖のある自殺志願者という難役が難役とも思えないほどいつも通りキャラの立った吉岡睦雄)なので、興味が持続したが、登場人物の服装の綺麗さや、姿を見せない大型生物の描写などに課題もあると感じた。
2年にわたる籠城は、かくして一発触発の安寧の中にある。この世界が、果たして「ユートピア」と言えるのか。その答えまでの道のりを探る映画でもある。
人類にもSNSにも何の期待もしていないのだが、mixi2体験してみた。結局、コミュニティ機能は良かったよなー。そこにきちんと注力し続けてくれるなら、少しは体験する価値あるかも。
https://mixi.social/invitations/@mcatm/GX2yaBe9cD1bKdKTQKUfom
デッド・オア・リベンジ
「ここには地雷も埋まってるらしいぞ!」みたいなノリでトレッキングにやってきた婚約中のカップルとその親友。最近知り合ったと言う地元のやつが写真撮ってくれるっていうんで、三人でポーズ付けてたら踏み抜く地雷。心底胸糞悪い2015年のジョージア映画。『ファニーゲーム』2回観た気分になった。この三人の関係がちょい訳ありで、復讐復讐って言う もんだからその辺の色恋かねって思ってたら、全然関係ねえ醜男がやってきてネチネチと嫌がらせを続ける。まるで共犯者のような振る舞いを続ける犬含めて、ここまで登場人物でまともなやつは存在しない。
復讐だかなんだか知らねえけど、この極度な加虐が続く中で大事なのは、痛めつけられてるのが常に女性というところ。ジョージア映画ということもあって、アメリカ人とロシア人、諍いの中で悲惨な経験をしているのは常に弱い立場の人たち、という見方もできるかも。
ホント極端に極悪な映画なので、自己責任で見てほしいけど、セクスプロイテーションとは一味違った奥行きのある作品。それが、ラストの表情に現れています。まるで『卒業』みたい。マジでこれからどうすんだろ?
ジョー・スワンバーグ&グレタ・ガーウィグ『ナイツ&ウィークエンズ』
マンブルコアとか映画館で観てると、どれだけちんちんやおっぱいが出てこようと「これを、ポルノとは、呼ぶまい」と固く誓う観客同士の無言の連帯を感じることが出来る。というのは半分冗談ながら、しかし物語における「セックス」の持つ意味があまりに大きいという自覚も、その連帯の礎となっているであ ろう。
元々本作は済東鉄腸さんのブログ記事で知り(基本、マンブルコアについては、このブログを一通り読んでおけば良い)、今年のグレタ・ガーウィグプチ映画祭でようやく観ることが出来た(他は全部観てた)。引用元のインタビュー記事なども追うと、スワンバーグとグレタ・ガーウィグの共同作業は、結果的に心底酷い状況に陥ったのは確かなのだろう。「幸せなカップルの映画」という構想は前半で挫折し、大喧嘩の末3ヶ月も口を利かず、再始動したのは一年後。そこから実際の時間経過同様、劇中の一年後にあたる後半を撮影したという。おそらくその結果、顕になった現場や人間関係の破綻が、劇中の二人の越えられない心理的な隔たりとしてフィルムに焼き付いているはず。維持できなかった遠距離恋愛が壊れ(維持できなかった共同作業が壊れ)、二人の社会的な立場などにも差が出来ていて、そんな現実をどのように処理して良いのかわからないから、一人さめざめと涙を流すグレタ・ガーウィグには、もうセックスしか残されていない。
『ハンナだけど、生きていく!』で、あれほど肉感的で奇跡のように美しい濡れ場を観ている我々は、ホテルの独り身には少し大きいが、二人だとちょっと狭いベッドを取り囲んだあまりに切ない時間を、「セックス」という魔法が解決することを望んでいる。鏡の前でドタバタと思い悩み、ブラ一枚?肩紐垂らす?両方の?寄せる?いっそ片乳だす?みたいに逡巡する時間は、コミカルである一方、ここから始まる凄まじい戦いの前触れであることは火を見るよりも明らか。しかし、「それ」は起こらない。そして、この映画は「それ」が起こらないことを描いていたのだった。
昨日の疲れが取りきれず、眠気もあってなかなか仕事の捗らない一日。夜は『ブラジルから来た少年』を観る。監督は『猿の惑星』を撮ったフランクリン・J・シャフナー。現代の感覚からするとさすがに冗長でかったるいところがあるのも否めないが、ナチスの残党が企てる「人類浄化作戦」が、蓋を開けてみたら「94人の平凡な公務員を殺す」という計画だったので、みんないまいち気合い入らない、という変なシチュエーションから始まるユニークな物語。なんか、妙に締め切りとか厳しいしなー。しかし、話が進むにつれて、次から次へと異様な状況が語られ、思わず引き込まれてしまう。「人間って遺伝がすべてなんだっけ?それとも環境?」という議論に対して、作り手が何も示そうとしない終盤の態度に、いやーな不気味さを感じてしまったのが大変良かった。
昨日の夜中、しばらく体調崩していてプレイできていなかったドラクエ3を久しぶりにプレイし始めると、午前7時。うわー、土曜日が台無しに!と慌てて眠るも、齢重ねて睡眠に必要なスタミナすらひねもす捻出するのが難しくなったみたいで、10時に起床。むすこに言われていた給食衣を洗濯し、バッキバキに晴れた気持ち良いベランダで干すと、大慌てで駅前の自転車屋にパンクの修理をお願いしてからシアターイメージフォーラムへ。楽しみにしていたベット・ゴードンの特集上映で『ヴァラエティ』。これがあまりに素晴らしかったので、急遽もう二本の短編も観てから、パンフとポスターを購入し帰宅。自転車をピックアップして、ポスターを額に入れ、余っていたシーフードを入れたトマトソースパスタを作ってむすこと夕食。M-1観て、風呂入って、今に至る。良い一日だった。『悪魔と夜ふかし』『ヴァラエティ』のレビューは書こうと思っています。
フィリップ・シーモア・ホフマン『誰よりも狙われた男』
ジョン・ル・カレの原作を、アントン・コービンが監督したスパイ・サスペンス。ある不法入国者の存在を知りながら、より大物の逮捕に繋げるために泳がせているテロ対策捜査官のギュンター(フィリップ・シーモア・ホフマン)。諜報部員たちの暗躍と、種々の組織の思惑と、登場人物たちの行動が交錯して複雑化し、付いていけなくなることもしばしばのスパイ映画にしては、ここまですんなり理解できていいの?と訝しくなるほど明快な話運びでスッキリと見れたのには驚いた。
捜査と工作で浮かび上がってくる事実を、針の糸を通すかのような操作で繋ぎ合わせ、真実を手繰り寄せていく。到底うまくいくような代物ではないこの案件が、「ちょっと無理しすぎ」なトライアンドエラーの末の顛末に、俺も「F**K!!!!」と叫びそうになるぐらいの衝撃を受けた。余韻の尺も丁度いい。もう酒飲んで忘れたい。そんな気持ちになった。
フィリップ・シーモア・ホフマンが本気で具合悪そうで心配になったが、これが最期の出演作。ニーナ・ホス、レイチェル・マクアダムス、ウィレム・デフォー、ロビン・ライト…と次から次へと名優が登場して、制作費が心配になる。ところで、ヴィッキー・クリープスは何度見てもアルバ・ロルヴァケルと見間違うし、アルバ・ロルヴァケルは何度見てもアンドレア・ライズボローと見間違う。ただ、アンドレア・ライズボローは、何度見てもアンドレア・ライズボローだと思うので、この勝負に関してはアンドレア・ライズボローの優勝です。
Szabó István - Budapest, amiért szeretem (1971)
何これ、最高すぎるじゃねえか、と。ハンガリーの映画監督サボー・イシュトヴァーンが1971年に撮ったショートフィルムの予告編。ブダペストとまどろむ若者たちの可愛らしい妄想の話。恋に破れても、いつの間にかどうでもよくなってしまうぐらい、夢見心地の人々。本編は51分らしいです。観たい。
『メフィスト』でアカデミー外国語賞獲ってるような大監督なんですが、現状、自分の可能な範囲だとU-Nextで配信されている『テイキング・サイド ヒトラーに翻弄された指揮者』という作品以外は視聴困難っぽい。観てみたいなあ。YouTubeには、もう一本ショートフィルムがアップされていて、そちらも小さなアイディアが効いていて大変面白かったです。
咳が少し残るぐらいで、徐々に恢復している。ジョン・ワッツ監督作『クラウン』を観る、など。出張ピエロが来れなくなった代わりに、不動産屋のお父さんが手近なところにたまたま放置されていた衣装を着てピエロを演じたら、それ以来、衣装が身体を離れない。七色のかつらまで、自分の髪のように一体化してしまってる、という悪夢をテンポよく描いていく序盤が素晴らしい。『コップ・カー』は観ているんだけど、改めて、上手いなーと。ただ、後半はただのかくれんぼになっちゃって、少々肩透かしでした。
目下、風邪罹患中。大分恢復の兆しあり。家荒み、食生活に翳り。
寝ている間に観た映画、数えてみたら10本でした。これ、大人としてあんまよくないね。無事、年内400本達成。記念すべき400本目はハーシェル・ゴードン・ルイス『血の祝祭日』でした。なんつうもんを観てるんだ。
『87分の1の人生』/低く低く、そこからでも抗うこと
母親の甘やかし、現実逃避のドラッグにテキーラ、スマホにインフルエンサー。依存症の現代的バリエーションを過剰に盛り込んだ「依存の申し子」のようなアリソン(フローレンス・ピュー)。交通事故を起こし、婚約者ネイサンの姉夫婦を死亡させるも、直前にスマホに気を取られていたという過失を認めることなく、悲しみに目を背けて婚約者からも逃げるように依存の日々を送る。
かたや、ネイサンの父ダニエル(モーガン・フリーマン)は、決して順風満帆とはいかなかった自らの過去を 補正するように、鉄道模型に没頭する。自らが神として君臨する87分の1スケールの世界のそこここに、夢見た理想の人生を散りばめて慰みとしているが、望もうと望むまいと彼の人生はまだ終わっていない。両親を失った孫娘ライアンを引き取り必死に育てるのだが、肉親を亡くしねじくれて刹那的な彼女の心は、老祖父や学校、社会との軋轢を生むばかりで、ダニエルは途方にくれる。
アリソンとダニエルにライアン、そして元婚約者であるネイサンの人間関係の中心には死んだ姉夫婦があって、その突然の不在がハリケーンのように彼らを引き裂いてしまう。失われた臓器が形を取り戻していくかのように、運命と不随意な行動の連なりが新しいリレーションシップを導くと、それぞれの「依存」の形がはっきりと形を取り始める。特にアリソンが自らの人生を取り戻すには、これらの依存から抜け出すことが必要である。その枷がいかにして彼女を締め付け、どのような闘いと、どのような意志と偶然が、彼女の運命に作用するのかを、観客はつぶさに目撃することとなる。
運命と赦し、依存と自立。かりそめでもいい、鉄道模型を高みから見下ろすような「神の視点」を求めたダニエル。自ら言うように「正しい人間(A Good Person)」であると言い切れるような、そんな人生を送ってきたとはお世辞にも言えない彼が、それでも抗うように自身の手首に刻んだ文字の意味をアリソンに伝える。同じように、自分を捨てた父という枷を手首にはめていたアリソンの、自室に残るピアノと水泳のメダル。低みから見上げる、そんな抗いの記録にも似た物語だった。