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『マルケータ・ラザロヴァー』/白黒のキャンバスに像を結ぶ野蛮なリアリズム

雪の舞う極寒の地を往く伯爵一行が、物も言えぬ白痴に見える片腕の男とすれ違うと、やおらスリングを取り出したその男の奇襲に遭い、伯爵の息子クリスティアンとその従者が捕らえられてしまう。略奪者であるコズリーク一家。彼らを捕らえんと復讐に燃えるビヴォ隊長をはじめとする王の部下たち。そしてその抗争の隙間で、細々と生きるラザルの一家。中世ボヘミア王国を舞台に、それらの勢力が三つ巴のにらみ合いを続けている。

野蛮に、狡猾に生きる人々と、神に仕え、禁欲的に生きる人々。その価値観が交錯するところに、火花のように散る物語がある。ラザルの娘マルケータ(マグダ・ヴァーシャーリオバー)は、修道女となる定めに生きる美しい処女。ラザル一家は、隣人コズリークの野卑さや野心を疎ましく思いつつ、実際はおこぼれに与るようにして生きている。雪の大地に黒く散る狼と、白い空を往く鳥のように。

王の命の下、捕縛の罠にかけようとした元ビール職人の”ビヴォ(ビール)”隊長を自ら返り討ちにするたコズリーク。ラザルたちに同盟を持ちかけるも袋叩きに遭い、復讐を誓うコズリークの息子ミコラーシュ。成り行きで「無意味な」死へと誘われるビヴォの補佐官。立場や大義に合わせて色を変えてみせる人間たちの業が暴力と死に彩られ、穢れを知らぬマルケータの運命に黒い影を投げかけている。

禁断の「恋」に囚われ、社会によって汚れの烙印を押されることとなったマルケータは、実際に聖性を象徴する修道女たちと、図像的にも対照を成していく。いかにもキリスト教的で神聖なコーラスと抽象的な音楽、ぼんやりとモヤのかかったような音響処理や、リズミカルに切り替えされるカットと太鼓のシーンなど、音楽的なアイディアも効果を挙げる。決定的なマルケータの「堕落」と、盲目的に卑俗を拒絶するかのような修道院が、イメージの上で対比したまま、突き落とされるような衝撃が物語の終盤を貫いていく。

神聖なるものの欺瞞。野卑な存在の逆説的な崇高さ。シンプルな二律背反が成立しえない、不安定な秩序が頼りなく成立した大地で、女性たちは生かされている。社会に押し付けられた「聖性」と、同じように投げつけられる「魔性」。片側では聖なるマルケータが、片側ではコズリークの淫靡な娘アレクサンドラが、それらを表象し、彼女たちはそうしたイマージュによって社会に捕縛されている。その傍らでいくつもの「奇跡」がサイケデリックな像を結ぶと、かくして女性の神秘は一方的に称揚された挙げ句、抽象の中でその実際の「生」はあまりにも軽んじられていく。

ヴラジスラフ・ヴァンチュラの同名小説を原作とした、チェコの実写映画最高傑作と言われる1967年のフランチシェク・ヴラーチル監督作。極めて厳格な自然主義によって、ショットは後景にぼんやりと溶け込み、人々の顔は見切れている。多くのファンが垂涎して公開を願った本作は、蓋を開けてみると「A24の新作」と言われても疑わないほど現代的な歴史劇。例えばアメリカのような国で人工妊娠中絶が禁止されようとしている今、女性の「生」について改めて考えさせられるような、冷酷な視線に震えた。野卑な男性社会にも、ヒステリックな欺瞞に満ちた宗教にも見捨てられたマルケータは咆哮するのだ。

MCATM

@mcatm

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