たかが世界の終わり
グザヴィエ・ドランの長編第六作目。

長い間、実家を捨てて暮らす成功した作家が、自らの死が近づいていることを知り、家族にその事を伝えに戻る物語。これまで以上に肝心なことは語られず、本質の手前で逡巡する登場人物たちの、抑えつつも深刻な感情のやり取りが、極々狭い空間の中で展開していく様が非常にスリリングな作品である。
家族の皆が、自分たちを棄てた主人公のことを「非難していない」「これは批判じゃない」と強調すればするほど、この場における自らの居場所の無さ、「どこにも属していない自分」を意識させられるという構図。皆、お互いのことを知ろうとしたり、その気持ちに嘘をついて距離を置こうとする状況が、この映画の行間を読もうと集中する観客と重なり、息も詰まるような時間が淡々と流れていく。
道化を演じ続ける母親が突然見せる、本質をえぐるような視線。しかし彼女は事実は何も知らない。
何かを知ってしまったのは、マリオン・コティアール演じる、主人公の兄嫁。しかし、彼女は何も見抜けない。主人公は、この疎遠の家族に落ちた一滴の染みであり、そして多くの場合染みはいつか消される運命にある。
結局、幾多もの逡巡を乗り越えて、できなかったのではない、「伝えないことを選択した」物語である。対比的に、「伝えること」の残酷さ、無神経さは、兄の口から無造作に伝えられるある人物の死に描かれている。その無神経さは、主人公を更に遠ざけていくのだ。
また、果たしてこの物語には、「持つ者」の苦しみが記されている。おそらく、作家として名を成した主人公にとって、「持たざる者」たる家族の人々との再会は、話し言葉にせよ、振る舞い、知識にせよ、その断絶を強く思わせるものであった。今まで、徹底的に「叶わぬもの」の苦しみを描いてきたグザヴィエ・ドランにとって、何らかの意識変化、もしくは『Mommy』という傑作を成したその次の作劇として、些か挑戦的に作られた作品なのではないかとも思う。
スリリングな感情のやり取りがメインで、派手なシーンも説明もあえて少ない作品。だが、マリオン・コティアール、レア・セドゥ、ヴァンサン・カッセルといった一流の俳優が一同に介し、濃密な感情のタペストリーを織り上げるその様は、『8月の家族たち』のドタバタともまたちょっと違った、「家族に異物が混入する」状況が描かれていて、十分に面白かったです。
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