ラ・ラ・ランド

2017-03-21 02:41


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LAの高速道路を塗りつぶすカラフルな渋滞から物語は始まる。ゴダールの『ウィークエンド』を想起させる車の群れは、永遠に延びているように見える。「シネマスコープ」仕様のスクリーン、その向こう側まで。

オープニングの素晴らしいミュージカルシークエンス「Another Day of Sun」は、そんな抑圧からの解放を「総天然色の夢」としてスクリーンの上に具現化してみせる。うだるように暑苦しい空間、じっとりと青く滲む空をレタリングするように「LA LA LAND」、Yasashii Std Regularフォントがスクリーンを支配する刹那、この映画の持つ空気感にグッと支配されたような感覚を覚えた。『ラ・ラ・ランド』。美しい映画が始まる。

夢を日常が切り裂き、日常が夢を終わらせる

しかし、アヴァンタイトルの終了と同時にシラっとした空気が流れ、喧騒に溢れた日常が一気に着地する。狂乱を演じた人々は、まるで集団熱病かなにかに冒されていたのだと言わんばかりに、車中、相も変らず停滞し続けている時間の中に舞い戻る。この切り返しのグルーヴ。夢から覚めたような虚脱した時間感覚。このいかにも「ミュージカル」的な、現実と夢を越境する時の、エスカレーターを降りた瞬間のような違和感。

もしくは、LAを見下ろす丘のマジックアワー、端から「映画史に残る名シーンを撮影するぞ!」とスタッフ一同鼻息荒く撮影したに違いない、とんでもなくキュートで魅惑的なタップダンスのシーン。やがて二人の結びつきを示すことになるダンスと音楽が、うんざりするような日常音の象徴=iPhoneの着信音にせき止められる。多くの場合、「タイマー」としても使用されるこの着信音はやはり、現実と夢の境界線である。

今にして思えば、「アカデミー賞14部門ノミネート!」といういささか景気の良すぎる話で2017年前半の注目をかっさらい、監督賞・主演女優賞(エマ・ストーン)含む6部門で受賞しながら、受賞作品を取り違えられるという「世紀のハプニング」を経て、結果的には『ムーンライト』に作品賞を持っていかれたという結果も、この現実と妄想の被膜に織り込まれたストーリーの一部だったようにすら思えるのだ。

誰も主人公のことが見えていない。本人ですら

映画館で何度も目にした予告編でもその都度落涙を禁じ得ないほど、本作の「音楽の力」は強力な武器である(俺の涙腺の緩さはさておいても)。その中でも特にパワフルな楽曲「Someone in the Crowd」に乗せて展開する、パーティーのシーン。「娯楽の暴力」とばかりに冒頭から飛ばしまくる本作のパワーが、見知らぬ世界を前にとまどいを見せ、一歩を踏み出せずにいる主人公ミア(エマ・ストーン)を、狂乱の渦に引きずり込まんと荒ぶるうちに、空気に滲むような極彩色が踊りだす。とにかく撮影が素晴らしい。しかし、フィルムに乗ったその美しい色彩が、二人の蜜月を映した夏のチャプターをピークに、徐々に失われていく。そこに取り残されているのは、「極彩色の夢」などではなく、「ビターな現実」である。

ジャズへの情熱を語るその一方で音楽に対する姿勢は柔軟性を欠き、ピアノ弾きとしての職務すら全うできずにいるライアン・ゴズリング演ずる主人公のセブ。ホーギー・カーマイケルの座ったという椅子を後生大事に扱うところからも窺い知れる、古き「良き」ものに固執するセブ。
方や、ミアは女優業を志してはいるが、ぼんやりとした憧れを抱いているだけで、ただただ闇雲にオーディションを受けては落ちる生活を送っている(杜撰なスケジュール管理をどうにかしろと思う)。ふたりとも互いに相手に欠けているものを認識しているが、己の社会に対する不誠実さや、己の本当にやるべきことが全く見えていないか、もしくは努めて見えていないふりをしている。そうした不誠実さがやがて二人を地獄に導き、そのありきたりな帰着として迎える決定的な破局を以って、「人って、自分のことが一番見えてないんだよね…」と一般化の後に、観客はもどかしさを感じてしまう。本作を通して噛みしめさせられるこうしたビターさの中にこそ、本作の最も優れた効能が含まれているのだ。

例えばその効能は、「夢追い人」と歌われる二人の路がはっきりと分岐する瞬間、この選択は本当に不可避のものだったのか、と胸に去来した出所不明のもやもやした気分にもあらわれている。一般化してみると、我々もそんな現実を後付で「運命」と呼んでいるのではないかと気付く。そう、人間とは「不可避な現実」を、後付で「運命」と呼ぶ生き物なのだ。セブにとってのジャズも、古き「良き」ものではある(このセブの見立てもいささか狭量である)が、そうであるが故に「古臭いもの」として排除されゆく運命にある。その運命を受け入れるのか、それとも拒絶し抗うのか。

倒錯した夢は、もう一つの現実

本作において、多くの場合ミュージカルシークエンスとして描かれるのはもう一つの現実=「夢」でもあり、またその「夢」から登場人物たちは唐突に「現実」に墜落する(本作で最もドリーミーな瞬間は、雲の上で描かれるわけで、それを浮揚と墜落、離陸と着陸の暗喩で語り直すのは然程突拍子もないことではない…のではないか)。本作における最も大きなネタバレとなるであろう「ラスト数分間のミュージカルシークエンス」。ここで、観客は最も大きな浮揚と、最も大きな墜落を目撃する

(ここから大ネタバレ)

破局から数年後、ふたりは、ふたりなりの成功を収めている。セブは現実に折り合いをつけることで金銭的な成功を収め、ミアとの思い出に寄り添うかのように「セブス」と名付けた店を成功させ、ジャズをささやかに復権させた(ように見える)。『マルホランド・ドライブ』における売れない女優の妄想を想い起こさせるようなオーディションでの凄まじい演技を評価されたミア(この映画で何度かある、夢と現実の境界線が曖昧なシーンの一つだ)もまた、かつて羨んでいたような成功した女優として、家庭を持ち、幸せな生活を送っている(ように見える)。交わらなかったその二つの時間軸が奇跡的に交錯する瞬間、「もう一つの現実」が白昼幻想としてもう一度色鮮やかに具現化する。

あるべきだったもう一つの現実では、出会いの瞬間からよりロマンティックに塗り替えられた二人の恋は永遠に続く。しかし、セブの理想は影を潜め、彼がミアに人生を捧げることで、お互いの境遇は少しずつバランスを変えていた。そういう意味では、これは単に「己の成功と引き換えに、ミアの成功と二人のロマンスが続くことを望んだ」セブの夢だったのかもしれない。一方で、かつて幾度となく通ったであろう「セブス」の建物のそばを通ったときに何も思い出さなかったミアの心には、一体何が去来していたのか。

ふと夢から覚め、世界がその妄想に飽きてしまったかのような気だるさが戻ってくると、「夢」と「現実」の境界線におけるこの映画のルールはここで厳格に適用される。そう、現実が舞い降りてくるのだ。しかし、まさしく永遠の別れが訪れるその瞬間に、もう一度だけ二人は視線を絡ませる。その表情には、「もう一つの現実」を、単に「選択されなかった人生」として客観視する冷静な視線と、「選択された人生」を生きた互いの健闘を認め合う感情の両方が浮かんでいたように見えた。

ロマンスは続かない。そんなありきたりなほろ苦さ、それこそが人生である。しかし、それに耐えきれなくなったら、つかの間、もう一つの現実をよすがとして生きていても良い。そんな弱さを肯定されたような気がした。本当に、美しい映画だった。

MusicOst: La La LandInterscope Records

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    Writer
    mcatm
    Date
    2017-03-21 02:41:56
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