ルネ・クレマン全然合わないのかも。
久しぶりに妻が帰ってきたので、嬉々として不在中に一番評判の良かったカジキマグロのソテーを作る。大変美味く出来た。
吉祥寺を一人で歩くのはちょっと寂しい。しかしながらいくつか用事があったので、忙しく歩き回る。その前に、少しだけカフェでコードを書く。そのまま、靴を買ったり、ジュンク堂覗いたりしてから、むすこと合流。サイゼリヤでエスカルゴの楽しみ方を伝授してから、二人分のフォーマルスーツを仕立てる。電車で自宅周辺まで帰ったら、歩いて投票へ。もうやることは終わった。
明日、妻が二週間ぶりに帰ってくるので、少し念入りに部屋や台所を掃除する。普段からやってるので、そこまで大掛かりなことにはならない。
夕食を食べながら、フィリップ・ラショー『バッドマン 史上最低のスーパーヒーロー』を観る。むすこが、完全に映画にハマり始めて、この期間に良い映画に出会って欲しいので、なるべくたくさん見せるようにしているのだが、それにしても今日は大当たり。こちらが下げに下げたハードルの更に下を行くフィリップ・ラショ ー!!めちゃくちゃ素晴らしかった!!マーベルやDCのヒーロー映画が好きな人にオススメ、というだけではなく、90分弱の上映時間の中に隙間なく詰め込まれたギャグ、張り巡らせた伏線という伏線を要らないところまで回収していく構築力も考慮すると、全コメディファンにオススメしたい(まあ、最低限の元ネタ知識は必要だけど)。パロディ元を、全力でバカにし切っているが、あまりに全力過ぎて結論「この人たち、ヒーロー映画めちゃ好きそうだな」という感想が残ってしまうという奇跡。ラストまで余すことなく楽しい。フィリップ・ラショーの映画が面白くなかったことはないが、それにしたってこの完成度は想定外。また観たい。
余談:絶対観ておいて欲しい元ネタは、『ダークナイト』マカヴォイファスビンダー以降の『Xメン』どれか、『ローガン』『エンドゲーム』です。意外と少ないけど、『エンドゲーム』を最大限に楽しむためには、それまでのMCU全作観ておく必要があるから…(略)
小さな滝が飛沫をあげるその奥にしゃがみこんで、一心不乱に股を拭いている少女。じぐざぐ道を征くキャンピングカーからゆっくりと、まるで逃げるように動くカメラ。リズミカルだがゆっくりと力強く回る風力発電機の奥の陽光。画面の中心に収まるべきものは不安定に揺れ動き、クローズアップが詳細をはぐらかしたり、いざ事が起こってもその核心はぼんやりと夜の闇に溶け込んだりする。
こうした図像演出が単なるギミックに落ち着かないのは、物語の構造も視覚的な特徴と相似形を成しているからである。赤くくすんだキャンピングカーで田舎町を巡る父と娘。移動映画館を営む傍らで、車内でDVD-Rに焼いた海賊版のポルノを売って生計を立てている。そんな先の見えない爛れた貧困生活を何年も続ける中、初潮を迎えて大人への階段を登り始めた少女は、父親に「海へ行きたい」と告げる。その後、二人きりの陰鬱な旅路を経て、いくつかの寂れた街に到着するが、微妙に遠かったり、事故に行く手を阻まれたりして、「海」という中心への旅路は永遠とはぐらかされているような気分になってくる。
しかし、そもそも「海へ行きたい」とは何か。単に「ここではないどこか」を指した符牒なののか。それとも「海」であることに意味があるのか。それをうっすらと理解するチャンスが訪れる頃には、物語は最終盤に差し掛かっていて、にも関わらず相変わらず主題がくっきりと鮮やかに浮かび上がるようなことはない。まるで、要所で流れる劇伴のアンビエントな響きのように、ぼやけて、溶けていく。
そうした曖昧な身体を持った物語の全容が照らされることはないまま、しかし肉体を切りつけると血が溢れ出すように、細部の情感はところどころで生々しく押し寄せてくる。まるで、昨日の出来事は鮮明だが、全体の意味を捉えるのは難しい「人生」のように。そして、数少ない「全体」と「細部」が合致する瞬間に、今まで静かに操作されたカメラがぐらぐらと揺れ、何かが起こっているかのように見えるのだが、その突端も珍しく声を荒げた父親の「塩取ってこい!」の一言だったりするから、この身体には想像の余地が限りなく残されている。
父親と2人きりのキャンピングカーでの夜。性的な不穏さもまとったまま寝支度を整えると、少女は小さな機械を取り出す。スイッチを入れると電飾で彩られたチープな星空が、彼女たちの狭く汚れた暗い車内を照らす。一歩外に出れば、トラック運転手が娼婦を買っているようなスタンドの片隅で、この空虚で過酷な世界は小さく、しかし内側から確かに光を発しているのだ。
昨日は久しぶりに出社して、いろんな人と会話して、軽く酒を飲んで帰宅(仕事、とは?)。立派に留守番してたむすこと、無礼講でお菓子食いまくってたら、今すげえ胸焼け。Prime Videoで『ザ・ゲーム』という酷いタイトルのホラー(そこまで悪くなかった)と、スティーブン・セガール『暴走特急』を観る。
奇跡的に早起き出来たので、今日は朝からヌリ・ビルゲ・ジェイラン『二つの季節しかない村』を観に新宿武蔵野館へ。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン作品を映画館で観るの初めてで、3時間17分あるが楽しみで震えてる。
メルヴィルの『モラン神父』観たんだけど、あんま良くない。無神論者で元コミュニストの主人公が、からかい半分で告解しようとモラン神父の下に訪れてから、二人は神学論争する仲に。そのうち、主人公は今まで抱えていた女上司への同性愛的な憧憬から、モラン神父に愛情を注 ぐようになるが、厳格なモラン神父はそれに応じようとしない。
主人公とジャン=ポール・ベルモンド演じるモラン神父は、躍動感に溢れていてコメディ的なおかしみすらあるのに、物語はその魅力を封印する方封印する方に動いていき、なんか観る価値のない展開が続くので退屈してしまった。
なので、大根と鶏肉を大量に煮て食べた。
お気づきの方は少ないと思う。俺は基本的に、U-Nextのマイリストを「もうすぐ終了順」にして、終了日が決まっているものから観ていくことにしている。だからです。だから節操がないんです。ちなみに、他の配信プラットフォームにはないこの機能、すげえ重宝しています。こんなんでもないと、観るべき映画は溢れていて、どれから手をつけていいのかわからなくなる。『哀れみの3章』ですわ。「自由であるほど、不幸になっていく」…。
ということで、今日はアンヌ・フォンテーヌ『ボヴァリー夫人とパン屋』という得体の知れないゴーモン映画を観た。いや、得体は知れているはずなのだが、なんでマイリストに突っ込んだのか全くわからない。アンヌ・フォンテーヌは、一本も観たことがない。なんで?
出版社に勤めていた主人公マルタンは、父のパン屋を継ぐために地元で暮らすフランス人。隣に引っ越してきたイギリス人が、ボヴァリー一家。あまりにシチュエーションがフローベール『ボヴァリー夫人』に似ているもんだから、元出版社勤務の血が騒ぎ、妄想を繰り広げる。
「大人のファンタジー」と銘打った官能映画という触れ込みだったので、もっと慎ましやかか、ポルノ紛いのものなのかと思っていたら、まるで中学生の妄想のようなエロ描写が続く。パンをこねるジェマ(ジェマ・アータートン)のうなじ。ワンピースのざっくりとはだけた胸元。挙げ句の果てには、「スズメバチが入ったので、背中のボタン開けて、毒を吸い出して」と来た。クラクラしました。
ただ、テーマがどこにあるか分かりづらいのと、現代フランス映画的なのっぺりとカラフルな色彩感覚にもあまり魅力を感じられず、前述の中学生エロと、ジェマ・アータートンが魅力的なのと、あんまりにもあんまりで笑ってしまうオチ、以外にはそこまで飛距離の伸びない映画ではあった。『ボヴァリー夫人』ギャグ、特に殺鼠剤に異様に反応するマルティンとか、もうちょっと面白くなりそうな要素はそこかしこにあったのだが。『ボヴァリー夫人』未読だから良くなかったのか。なんにせよ、映画を楽しむにも、もっと教養が必要なんでしょうな…。
「豚肉がある」。この現状を把握しただけで、先行き不透明なまま玉ねぎを切り始め、炒め始めたあたりで焼きうどんにすることにした。結果、大当たり。最近、鰹節の使い方が上手くなってきた。夜は、ミートソーススパゲティに、昨日からレパートリーに追加したフライドポテトを作る。こちらも美味い。玉ねぎをみじん切りする速度も上がってきたし、やり続ければ上手くなるものです。
邦題が最悪な、ノア・バームバック『ベン・スティラー 人生は最悪だ』。原題は主人公の名前を取って『Greenberg』。彼がグリーンバーグであるという鎖を引きずり続けていることが示唆されているが故に、これはすごく重要なポイント。家族とか、地元とか。
相変わらず(というか、ここから始まる)ベン・スティラーに自分を重ねることで、バームバックが自分の話をしているだけなんだけど、やっぱり面白い。とは言え、グレタ・ガーウィグ主演で、ジェニファー・ジェイソン・リーが脚本だけではなく「元カノ」役で出演までしているという本作を、手放しで無邪気に楽しむのはなかなか難しい。
グレタ・ガーウィグ演じるフローレンスが、車の列に割り込みをかけることで外部との接触を図るのと対照的に、精神病院を退院した40代独身男のロジャー・グリーンバーグ(ベン・スティラー)は道行く車に悪態をつきまくり、「LAでもNYと同じように、クラクション禁止令を敷くべき」と息巻く。趣味は、大企業への苦情の手紙を書く事。他者との境界を乗り越えようとする者と、境界を高く高く自分を守ろうとする者。コミュニケーションのあり方が対極にある二人が、ひどく回り道をしながら、それでも距離を狭めていこうとする話。
出会って間もないのに突然抱き合い始めるフローレンスとロジャーに、「特に好きでもなさそうだったのに、何でこんなことに?」と訝しがっていると、二人も我々と全く同じような「?」という表情でそそくさと中断してしまうという。なんというか、温度の低さ。ロジャーと、その友達アイバンと、ずっと抱えていた問題をやっとぶちまける終盤に至っても、温度はずっと低いまま。怒りを抑える事のできないロジャーだけがぎゃあぎゃあと喚き続けている。
いつも想田監督映画のサブキャラクターとして大小様々な役割と担ってきた「猫」が、今回ついに主役。しかしながら、当方猫には全く興味がないため乗れるか不安だったのですが、問題なし。能動的に観れば観るほど得られるものが大きくなる。そんな「観察映画」の最新版として、いつも通り楽しく観ました(俺は『Peace』からずっと、ほぼ「謎解き映画」として観てる)。
想田監督夫妻がNYから移り住んだ岡山県牛窓の「五香宮」という社に住み着いている大量の野良猫を始点に、マクロな視座を以て社会を批判的に見つめ直す、というスタンスを取りながら、巧妙な編集の賜物として複数の視点の可能性が散りばめられる。序盤から、癒しを求めて野良猫に餌付けする女性が出てきて、ぶっとい社会批判にたどり着くが、この映画が行うのはこういう無邪気な人たちの批判ではない。一方で、増えすぎた野良猫を避妊・去勢していくと いう町の決断は、無垢な子どもの「増えてもいいのに。かわいいから」という声に対して決定的な力を持たない。
老人の多い牛窓。公園に関わる人も様々で、毎日ボランティアで草木の手入れをする人や、去勢手術を行うために野良猫を捕獲する人など、その多くが牛窓に生まれ、戦争を経験している。こうした老人たちを繋いでいるのは地元の古くからの風習や宗教であって、それが行動倫理の一部になっていることが確認できる町の寄り合いのシーンが一つのクライマックス。ここで、野良猫の問題と、地域の倫理問題が絡み合い、「なんか、うまくいかないもんっすね…」が表出した後、うまくいかないまま妥協案が提示される日本的な政の場が現れる。でも、それって、いつの間にか戦火に突き進んでしまった社会の「不具合」と同根でもある。…でもねえ…。悪い人は一人も出てこない。それぞれが、町のそれと複雑に一体化した自分の価値観に向き合い、答えを出していく。
ところが、ここに刺客が現れる。この倉敷から来た「よそもの」が、カメラを片手にこの町と野良猫の関係性について、よそものならではの鋭い角度から批判的な言及を始める。想田監督の「観察映画」には、こうした場を一転させるキャラクターやシチュエーションが度々登場する。『港町』の「死のうとした」婆さんや、『Peace』の「橋本さん」、『牡蠣工場』の若い奥さん、など。ここでも、もう一人の能力者=観察者の出現に、急速に場がピリつき、話が振り出しに戻っていく。
成り行きで当事者となってしまったプロデューサーの柏木さんの太極拳や、想田監督本気の「困ったなあ…」、ディザスター映画としても手に汗握ったりと退屈している暇などない。この簡単には結論が出せない感じに、思わずイスラエル・パレスチナ問題を想起してしまった。こうして、映画を扉にして、心にいくつもの視点を宿らせる事のできるところに、「観察映画」の魅力が詰まっている。
これを「アクションコメディ」と呼ぶのは、『パルプフィクション』をそう呼ぶのに近い。ほぼ詐欺である。「天使の処刑人」も、ど直球の詐欺案件。作りとしてはチュルヒャー兄弟『ガール・アンド・スパイダー』とかに近い感触の映画だと思う。
とは言え、物語は、タランティーノばりにケレン味たっぷりのガンアクションから幕を開ける。そこでのいくつかの些細な違和感は、2010年代的なケレン味の中で回収されるかと思いきや、シアーシャ・ローナンとアレクシス・ブレデルによる「美少女殺し屋コンビ・バイレット&デイジーの日常」という今では「ベビわる」に継承されるスキームの中で、じわじわと膨らんできてしまう。ドレスが買いたいから割りの良さそうな殺しの仕事を請ける、というところまではわかるが、組織のメンバーであるラス(演じるはダニー・トレホ)と手遊びしている姿を、従来の「ケレン味」で処理するのは難しい(二度言うが、演じるはダニー・トレホだよ)。
次なる処刑のターゲットが留守だったので、銃を持ったまま眠りこけてしまう二人。帰ってきたターゲットは、こともあろうに眠る二人の殺し屋にやわらかな毛布をかけて、自分も眠ってしまう。完全にプロ意識の欠落した「凄腕」の殺し屋二人であるが、その二人が眠るソファのすぐ後ろの壁には、ターゲットの娘とおぼしき写真が飾られていて、さっきまで留守番電話でターゲットを罵倒していたのも、この娘なのであろう。この不在の娘の写真は、執拗に二人の間に配置される。まるでそこにターゲットと対峙する「3人の娘」がいるようにも見える。
劇伴はほとんど鳴らないため、静寂の中、ターゲットと「3人の娘」の対話が始まる。組織に対して盗みを働き、追われる身になってしまうターゲットは、同時にライバル組織の方にも同じような裏切りを行っていて、都合二つの対立する組織に追われている状態。ターゲットが危機的状況に陥る度に銃弾を使い果たすバイオレットとデイジーは、その都度、近所の闇ショップまで銃弾を調達にでかけなければいけない。こうして、処刑までの時間は引き伸ばされ、弛緩していく。
無垢なデイジー(シアーシャ・ローナン)が、ターゲットとの対話を通して仲を深 めていく一方で、神経質なバイオレット(アレクシス・ブレデル)はその悪夢的な時間感覚の中でいくつものオブセッションに囚われ、自分を見失っていく。かつて失ってしまったパートナーのローズ、何かを足で踏みつけにする事(「けんけんぱ」のことを、英語では「Hopscotch」と呼ぶらしいです)、飛行機の影と事故。この「容易い仕事」にいかなる結末が用意されているか、も大変な関心ごとではあるが、それ以上に気になるのは、仕事を終えた二人の「美少女殺し屋コンビ」は、何事もなかったかのように、あの部屋での生活を再開させるつもりなのだろうか、ということ。
章立てになっているこの物語が、9章だけ「9A」と記されていたことに注意したい。いくつかある結末の一つで、個人的には一番突拍子もない展開がチョイスされたと感じたが、肝心なのはこれが「9B」であっても「9C」であっても、続く「One More Thing」はきっと変わらなかったであろうこと。それは、ドレスを着たデイジーに、ターゲットが「エイプリル!」と怒鳴った時点で決まっていた結末だったはず。バイオレット、デイジー、ローズ。そして娘の名前は、エイプリル。まるで春の小さな花壇を見ているような映画だったと思う。
今のチームになって、初めてペアプロにトライしてみる。自分でホストしたことがなかったので不安だったんだが、すごく楽しく終われてよかった。みんなで和気藹々とコードを書けばよいところを、何故かゾーンに入ってしまい、無言orブツブツ独り言言いながら、超高速で実装してしまいちょい反省。
金曜日、一週間の疲れを引きずったむすこと、近所のつけ麺屋で食事を済ませた後、ルネ・クレマン『パリは霧にぬれて』を観る。タイトル通り、濃い霧に包まれたパリで、貨物船に揺られるフェイ・ダナウェイを捉えた冒頭のショットの完璧さに、思わず唸り、ここで映画が終わっても良いとすら思う。自分の子どもたちが誘拐されてしまう未来を暗示する不吉なシーンでは、灰色の街、灰色の階段を黄色のフラフープが落ちていく。わかりやすく黄色がアクセントとして効いていて、めまいがするほど良い。
しかしながら、この謎めいた誘拐事件を捉えた物語は、後半、わかりやすく安っぽさを露呈して大失速していく。文字通り「組織(Organization)」と呼ばれる存在が明らかになっていく中、この「組織」の計画があまりに杜撰すぎるのである。ただただ、段取りが悪かったり、頭が悪かったりで、ぐずぐずと自爆していく「組織」を見て、なんか苦笑するしかなかった。全盛期のフェイ・ダナウェイがハッとするぐらい美しいのだが、皮肉なことに「組織」の間抜けさを強調するだけになってしまった。とにかく、冒頭だけ、観てみてください。予告でも雰囲気は味わえます。
ミュウ=ミュウとユペール様主演の『女ともだち』を観る。大戦化のヨーロッパで、夫をドイツ兵に射殺されたミュウ=ミュウと、ナチスに捕えられた収容所で、出入りの兵士から求婚されて出所が許されたユペール様が、終戦後にお互いの子どもを介して仲良くなる。家族ぐるみで仲良くしている二組の様子を捉えながら、情事や裏切りなど、いくつかの重大な事態が起こっても軽くスルーしてしまうという、すごく変なバランスの映画。その代わりに、突然ごく些細に見えるようなことに妙な力点を置いて語り始める。車での帰り道、先をゆくミュウ=ミュウ一家の車を、ユペール様一家が追い越すシーンなんて典型で、不必要な緊迫感を以って描かれる。その結果起こることと言ったら、減速したミュウ=ミュウ一家の車から息子が出てきて嘔吐する、という…。
それがすべて成功している、とは言い難いが、独特の雰囲気があって面白い。結局、この物語自体がある程度実際の二家族をベースに組み立てられているということがあって、このような歪なバランスになってしまったのだろうと思う。悪くはなかった。パントマイムで爆笑するユペール様が見れるというだけでも、価値のある映画だった。
傑作回だった第6話の次は、ちさとの実家に行くというチルアウト回だった『ベイビーわるきゅーれ エブリデイ』第7話。アクションはほぼ一切なく(シャボン玉を避けるときに若干動いたぐらい)、ひたすら実家でだらだらするだけ。なのに、自宅に帰ってスイカを食べながら、ちさとが生きているはずだったもう一つの世界線を想像してしまい、ボロボロと涙を流すまひろ。殺しと解放が同時に行われる6話に続いて、静かにすごい表現をブチ込んだ傑作回。このドラマがどこに向かうのか本気でわからなくなってきて、ワクワクしている。
観終わって溜息が出た。すごい映画だった。なんにせよジュリエッタ・マシーナを見る映画ではある。恋人に突き飛ばされて川で溺れ死にかけた冒頭、助けてくれた人たちに感謝の言葉も言わずに悪態をつきまくる娼婦カビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、とても愛されるようなキャラクターには見えない。ところが、大物俳優との思いがけない逢瀬で彼に引かれようとマンボを踊る無邪気な彼女。都はるみみたいな顔をして、チャップリンのような愛嬌を見せる彼女を見ていると、いつの間にかその躍動する生命に魅せられている。
脚本でパゾリーニも関わっており、序盤の娼婦たちのシーンは、なるほど『アッカトーネ』(本作の四年後、1961年に公開)で観た、あの「ストリートの夜」なのだ、と思った。猥雑で下品なローマ。そうすると、この映画の序盤は一種の「ストリートムービー」であるとも言える。イタリア〜ローマの地理には疎いが、おそらく貧困に喘ぐ田舎の娼婦が、都会の洗練された人々に馬鹿にされ、笑われ、騙される「ストリートの物語」である。
例えストリートを離れていたとしても、始終しかめ面、下品で粗野な彼女が、不意をつかれたり本人が望んでもいない形で、思いもがけずその「純真無垢」を曝け出す。神も、金も、自分を助けてくれない。あまりに絶望的な展開に鬱々と落ち込みそうな瞬間に、それでも生命の輝きが空間を満たしている。その瞬間の美しさは何物にも変え難いものがあるのだ。