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フレディ・M・ムーラー『山の焚火』が放つ偽りの灯

人里離れた山奥に暮らす家族4人は、幸せそうに見える。しかし、しばらく観ていくと、その「幸福」が各人の犠牲の上に成り立った繊細なガラス細工のように脆いものだと判る。唯一の隣人である祖父母の家ですら、双眼鏡で辛うじて確認できるほどの距離があるような隔絶された世界。平らで安定した家から一歩足を踏み出すと、縦に切り取られたかの如き険しい斜面が広がっていて、その美しく厳然たる自然に一種の畏怖のようなものを覚える。

家族には、みなから「坊や」と呼ばれる聾唖の弟がいて、両親の手厚い庇護の下に暮らしている。学校に通っていたが、父親から呼び戻されて、教師になる夢を諦めた賢い姉・ベッリは、家父長制の下、まるで人権を鑑みられていないように見えるが、本人も周りのそのことに無自覚である。弟はその名すら呼んでもらえないが、「満足に女と会うことも出来ない」ことで大人の男になれない不自由を解消するために、父親に街への同行を許可される。ベッリの、女の、欲望のはけ口は用意されず、なかったものとして無視されている。

表層的な「幸福」の上に生活していると、内々に込められた緊張を読み解くことは出来ない。青年期ならではの苛立ちを隠そうとせず、芝刈り機を崖から突き落とすなどの奇行を咎められた「坊や」の出奔を経て、家庭内に抑え込まれた欲望や不満がドロドロと流れ出し、「不幸」として結実する。しかし彼らはその明らかに表出してしまった「不幸」すらも表層で抑え込み、その場しのぎの明るい灯を灯してみせる。雪深いラストシーンに灯された「灯り」は、彼らの転落を一時的に包み隠す、偽りの灯りに見える。

MCATM

@mcatm

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