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二ノ宮隆太郎『若武者』/「邪な正しさ」に首を差し出す

公園で唖者の如く無言で呆ける主人公・渉(坂東龍汰)の背後を縫うようにやってきた子どもが頬につっかえ棒をして笑うと、渉はこの映画で後に一度しか見せることのない笑みを浮かべる。前に集中することと、後ろを警戒すること。この若者の絡め取られた人生は、前後の運動を規制されることから自由になれない。未来にも向かうことも、過去にすがることも拒まれ、行動の自由が奪われている。その様を嘲笑う英治(髙橋里恩)は、求められてもいない大量の弁舌を用いると、その不自由に抗い、行動することを促す。と言っても、その帰結は、路上喫煙者に対する終わりの見えない問答や、ゲイを装って道行く女性の差別感情を利用したナンパだったり、生産性の欠片も見えない。

暴力的に繰り広げられる「邪な正しさ」の洪水を前に、全くどこから手を付ければよいのだろうか。思い返せば物語も終盤、最大のクライマックスとも言える一連の流れの中で、友だちの光則(清水尚弥)が渉に伝言を伝えに来たシーン。長々と自説を語り、誰に感情移入するでもなく「理解不能な他者」として渉を罵り続ける光則の背後の青空に、溜まりに溜まったコンテクストが蜘蛛の糸のようにバーっと広がったように見えた。ここに来て「邪悪な三人組」の紡いできた糸が、不格好な曼荼羅を描き出し、渉はそれに絡め取られて前にも後ろにも身動きが出来ないでいる。

この三人の主人公たち、いわゆる「無気力な若者」像を決定的にアップデートしてしまった邪悪な三人組は、「革命」を標榜する英治の旗印の下、日常を骨抜きにしていく。「邪な正しさ」が振りかざされ、無闇と傷つけられた隣人たちは、暴力的に行動を促される。かくして、彼らの行動は周囲の環境に影響を与え続ける。それは劇中の長い長い台詞同士が呼応して、別の側面を照射するプロセスに似ている。そうした呼応関係は複雑に絡み合ったコンテキストの糸を成し、その糸に絡み取られて放棄されたじくじくと腐って淀んだ煮えきらない感情が、ある瞬間に鈍い音を立てる

ボソボソと何を話しているのか判然としない風情で、感情を伝えることに倦み、あるいは「殺すぞ」と極端に走ることしか出来ない渉。想定の1.2倍ぐらい声がデカく芝居ががった語りを以て邪悪で幼稚な自説を暴力的に押し付ける道化である英治。そこに、合理主義と情緒の欠落によって、「論理モンスター」として生きる光則がいつものように唐突に飛び込んでくると、そこは火薬庫になる。居酒屋店員の英治と、介護施設職員の光則。普段は優秀な社会構成員として生きる二人に対して、芥のように無気力な渉の姿。自らの運命に対する諦念に押しつぶされようとしている姿に見えてしまう。

「前向きに」。今まで口数の少なかった渉の口から、背後の「誰か」に向けて発せられるその台詞。膿んだ感情の発露として、「革命」を成し切った後の渉による、本作唯一の積極的な意思表示。その背後の「誰か」が、スクリーンの前で呆ける我々だったとしたら。その時、彼は再び笑みを浮かべて、首を差し出したのであった

MCATM

@mcatm

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