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ミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』/そして映画は更新され続ける

ずっと観たかったミア・ハンセン=ラブ『ベルイマン島にて』を観る。重層的で感傷的な俺の観たかったミア・ハンセン=ラブだ。もうこういうタイプの映画は撮るつもりがないのかもな、って思ってた。『未来よ こんにちは』とか『それでも私は生きていく』とは、明確に異なる何かを感じる。とは言っても、それは物語を支えている縦糸と横糸の量が多かった、という物量の問題なのかもしれない。

映画監督のトニー(ティム・ロス)とクリス(ヴィッキー・クリープス)は創作のために、自分たちが愛するベルイマンが暮らし、その傑作の多くで舞台となったフォーレ島にやってくる。アサイヤスとミア・ハンセン=ラブの関係を知っていれば、主人公カップルが何を模しているかは一目瞭然である。知名度にも年齢にも差のあるカップル。物語は徐々にクリスの視点から、家庭を蔑ろにしたベルイマンの人格への違和感、そして「男性は9人の子どもは産めない」といった性差を礎にした社会構造の歪さを顕にしていく。

空港で失くしていたサングラスを買い直し、トニーからの借りを清算する。過去の作品が上映され、地元の観客に講釈するトニーをよそに、学生とドライブしてシャンパンを空けビーチでクラゲを手掴みする。置いてきた娘のことを思い出して寂しくなる。そんないくつかの不安や興奮を通して、クリスの「拷問のような」創作が少しずつ前進する。

この映画の後半は、クリスの構想している未完成の物語で構成されるというのが特殊なところ。ミア・ワシコウスカアンデルシュ・ダニエルセン・リーによる再会と別れの物語は、同じ島を舞台にしている。現実と虚構が交錯する物語。クリスが抱えた強烈な違和、強烈な欲望、強烈な恋慕といった現実が物語に反映され、物語は現実に侵食する。その生々しい強度に圧倒されたのか、そもそも興味がないのか、トニーは彼女の創作物と向き合うことを拒否する。

映画の終盤、いくつかの虚構が集結して嵐のように混沌を巻き起こす様は、純粋な創作の現場を彷彿とさせる。純粋であるが故に、苦しみと喜びに満ちた創作の現場よ。劇中劇で描かれる「3日間の物語」のように、ベルイマンの暮らした島で、クリスのイマジネーションが瞬間的に燃え上がる様。それこそが、この映画に焼きついている衝動そのものなのだと理解した。

MCATM

@mcatm

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