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ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン

一日目。じゃがいもを火にかけると、来客あり。その男性を家に迎え入れた主人公(デルフィーヌ・セイリグ)は、そのまま奥の部屋へ。カメラは固定されたまま一転、日が暮れている。男性は女性に紙幣を渡し、「また来週来るよ」と告げる。居間にある大きな壺に紙幣をしまうと、そのまま、バスルームで念入りに洗った身体を拭いて着替え、浴槽を軽く洗い流す。テーブルクロスを引き、二人分の食器を配置した頃にはじゃがいもが煮えていて、息子が帰宅する。本を読みながらスープをすする息子に「食事に集中しなさい」と注意する。息子には少し多めにじゃがいもを取り分ける。照明を消した部屋にチラつく街の青い光。

3時間超の上映時間中、描かれるのは通常では省かれてしまうような動きと時間である。映画に於ける「引き延ばされた時間」という表現は、遅延したり割り込みが入ることで通常の動作が緩慢に引き延ばされることを示している。しかしこの映画では、そのような引き延ばしは発動していない。ただ、今まで見えなかった時間が見えているだけ。何故見えていなかったのか。それは、この「今まで見えていなかった時間」とは、私達のような男性が、物語の(そして人生の)枠組みから排除してきた時間だからである。

本作の『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』という長いタイトルは、それが含んでいる固定された場所と属性を持つ人物が、過剰とも思えるアクション描写を以て、すなわち日常生活を営んでいる、ということのみを表している。いささか飛躍気味に換言すると、変化しているのは時間だけである。ジャンヌには、時間すら場所や名前と同じように「変えたくない」という意志があり、この「保守する意志」は明確で強い。

二日目。時計の音に目を覚ましたジャンヌは、コーヒーを淹れる(この辺から、どうも私の記憶も曖昧になってくる)。息子は登校前に彼女に金をせびるので、居間の壺から紙幣を取り出して渡す。彼女はテーブルを掃除し、買い物に出かけ、丁寧にビーフカツレツを作る。私達が初めて見る午前中の行為を経て、じゃがいもを火にかけると、昨日とは違う男性が現れて、二人は奥の部屋に向かう。カメラは固定されたまま一転、日が暮れている。男性が渡した紙幣を、昨日と同じように壺の中に。

「変わらない日常」が演出されている。という意味において、この映画の主題はミヒャエル・ハネケ監督作『セブンス・コンチネント』に近いものがある。ただし「変わらなさ」が問題となる『セブンス・コンチネント』と比較すると、シャンタル・アケルマン監督作『ジャンヌ・ディエルマン』は「変わってしまうこと」が問題である。煮えていなかったじゃがいもを棄て、とはいえ家には余っていなかったので、わざわざ街に出て買ってきたじゃがいもの皮を剥く場面は、最初の綻びを示す見事なシーンである。苛立ちを隠そうとしないジャンヌは、じゃがいもの皮を剥きながら静かに失調していく

今日も食事に集中しない息子に「食事に集中しなさい」と告げるジャンヌの行為は、男性の視点と女性の視点が交わらないことを意味している。男性が見ているものと、女性の見ているものが異なっている。それはつまり、この二者は「異なる場所、異なる主張、異なる時間」を持っているということに近く、我々がこの映画に感じる困惑は、まさにそれらに依存する。3時間超の時間、ジャンヌはアクションを続ける。続けて、続けて、「続け続ける」その女性の姿は、他の映画では描かれてこなかった姿であるが、それはすなわちカメラの視線が男性的な視線だったからに他ならないのではないだろうか。例えば、ジャンヌの息子に、視線を合わせたのであれば、我々の座りよく感じる、いつもの映画がたちまち顕現するのではないか。

息子は、母であるジャンヌの動きに、声に、大きな関心を寄せようとしないまま、唐突に自分の話を始める。息子は、数年前に逝去した自分の父と眼前の母の夜の営みについて、下品なまでの躊躇のなさで踏み込んでいく。そこで、さりげなく顕になる、ジャンヌの夫婦生活。彼女は、息子が学校にいる間に客を取り、夫婦仲睦まじい写真の前で金に抱かれている。男女の「愛」から切り離された空間が、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地に存在している。

すべての歯車が狂い続ける三日目。カフェオレの味に感じる違和感が、彼女の行動を鈍らせる。「牛乳がマズい?いや、牛乳は普通、じゃあコーヒー?いや、コーヒーは大丈夫だったはずだから、いやいや、試しにもう一回混ぜてみる…?いや、やっぱマズい。コーヒーがおかしいか、淹れ直すか、いややっぱマズい、なにこれ……??」と、文字通りの些事が彼女の行動をかき乱すシーンは傑出している。舞台はいつも通り、私もいつも通り、しかし、時間と行為が空滑りし続ける。息子のジャケットと同じボタンはどこに行っても無いし、疲れて一息付こうと馴染みの店に行くと、いつもの席は既に他の客に取られている。カナダの親戚からの誕生日プレゼントが、この日の終着点を決定する。一日目に、彼女とその息子の「今後のこと」について話していた手紙が、彼女たちの運命を決定づけてしまう。

徹底したヒューマニズムの排除、ほぼフィックスのカメラ、主観視点なし、音楽なし。多くの映画に与えた多大なる影響を以てしても、未だにこんな映画には出会っていないと思えてしまうほど。「退屈」と一言で片付けられるような映画でもないが、しかしながら集中力を切らさずに見続けられるのも相当難しい。そのこと自体が、この映画のある種の批評性、すなわち「カメラ=男性の視点で切り捨てられてしまった多くのアクションの提示」がもたらす一つの結果として捉えられる。「徹底的に退屈でなければならない映画」。しかし、集中力を以て観続ければ、この画がもたらす凄まじいメッセージ性が顕になるだろう。

すべてが終わって暗い部屋で佇むジャンヌ。ここで改めて、日常から切り離された機能的ではない時間が、大いに引き延ばされる。時間の引き延ばし、それがすなわち「映画の技法」であることがはっきりと提示されるのだ。

MCATM

@mcatm

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