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『システム・クラッシャー』/カッコウの巣の上から

「そんなガキの番組見たくない!」と大騒ぎする弟の叫びから推し量れる、主人公ベニーの精神年齢。すぐにそれ以上の大噴火が、母親との貴重な再会の時間を恐怖の一夜に変えてしまう。どこの施設に行っても、どこの家に行っても、誰が面倒を見たって、ベニーの問題行動は変わらない。叫び、泣き、殴り、つばを吐く。行為がどこまでエスカレートしても、この映画の制作者はその責任を必要以上に別の何かに転嫁したりはしない。死ぬほど共感できないこの娘の問題は、この娘自身に帰する問題であるが、本人がその責任を全うすることなど到底期待できない。

確かに、実の娘であるベニーの問題を放棄し、手前勝手に夢を見させるだけ見させて施設に丸投げしてしまうこの母親は、弱い。弱く、悪い。だが同時に、こうした弱さだけが悪しざまに責められ、責任を取らされるような世界であって欲しくないという願いがある。「子どもは宝」「責任を全うすべき」と、言うは易い。しかし、この自然災害にも近い「過剰」を前に怖気づく気持ちはわかるし、せめて「わかる」と同情が示せる世界であって欲しい。それに、そんな状況を解決するために、公共の福祉は存在するのだ。

しかし実際には、福祉ですらこの手の「システムクラッシャー」に対して、有効な打ち手を持っていないように見える。大の大人が何人も集まり、「病気」という禁断の二文字をふんわりと迂回し、骨身を削ってなんとか絞り出した穏便な解決策も、本人の手によってことごとく粉砕され、そのたびにベニー自身の首が締まっていくのに本人はそれすら気づくことはない。

ベニーの思いはわかりやすく母親に向いている。それを「ママ!ママ!ママ!」との叫びに発露させるやまびこのシーンには、どうしても胸を突かれてしまう。真の解決はすぐそばにある。しかし、ピンク色のノイズも、顔を触れられたくないトラウマも、その傍らにあるはずの真の解決を曖昧な影へと霧散させてしまい、ベニーの虚しい旅路は終わらない。割れないはずの安全ガラスも割れてしまった後、僕らは彼女に手を差し伸べられるのだろうか。

MCATM

@mcatm

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