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『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』

「そもそも、ほら吹き男爵とドン・キホーテって何が違うの?」っていうところからスタートして、日本公開当時絶対観に行こうと思っていたはずなのになんとなく見逃し、今更観るのもなんか億劫だけどそろそろU-Nextでの配信終わるみたいだし…(視聴直後に延長決定してました)とか、うだうだうだうだ重い腰を上げて遂に観たら、本当に信じられないほどの傑作だったんだけど、何これ。Tomatometerも66%、Filmarksでも3.6(2024年9月19日現在)と、煮え切らない。なんすかね。俺だけ?興奮してるの。

テリー・ギリアムを嘲笑するものは斬り捨てる!俺が、ドン・キホーテだ!

ってぐらいの気分なんですけどね、俺なんかは。

資本主義の末端でCM監督として糊口を凌ぐトビー(アダム・ドライバー)は、ドン・キホーテの有名な風車に挑むシーンの撮影に行き詰まっていた。そんな中、自身の学生時代の監督作でドン・キホーテを演じた靴屋の老人・ハビエル(ジョナサン・プライス)の下を訪れると、彼が未だに自信がキホーテであるという妄想に囚われていることを知る。ハビエルは、トビーを従者サンチョ・パンサと思い込むと、それをフックにしてトビー自身も妄想の世界の扉を開いてしまう

若かりし頃のちょっとした行いのいくつかが、スペインの小さな村の運命を狂わせたことを知ると、その責任やかつての恋慕、スポンサーに雇われている弱い自身の現状などが作用して、トビーの脳内でドン・キホーテとの珍妙な冒険譚が組み立てられていく。その様は、誰がどう観てもテリー・ギリアム監督自身の経験をベースにしているとしか思えず、足元から湧いて出てくるようなイマジネーションの成果があっという間にゴミ屑に変化したり、次の瞬間にとても豊かな創造物が現れたりする。規模は色々あれど、誰の頭の中にもあるような種類のファンタジーが、具現化してしまう。

我々観客とは異なり、トビーにとってそうしたイマジネーションの洪水はいままさに起こっている現実である。だからこそ、そこに狂気の存在を疑ってしまうのだが、そうした脆弱な心境の彼とは対照的に、ハビエル=ドン・キホーテは毅然と狂気に向き合い、自分を曲げることがない。その様は滑稽ではあるがある種の崇高さがあり、それが故に、終盤、大衆の面前で行われる彼に対する侮辱を、トビーは許すことが出来ない。CM撮影を行うという創造の過程と、ハンドリング不能になったイマジネーションという狂気が、ドン・キホーテの尊厳が奪われる瞬間に交差し、「創造と狂気の接点」が顕になっている。

ギリアムによるドン・キホーテの映画化構想が、笑ってしまうぐらいの不幸の連続で頓挫した様子はドキュメンタリー『ロスト・イン・ラ・マンチャ』で確認できる。本作を見終わってすぐに視聴したが、見たこともないような土砂降りから、主役の病気、資金難と、「呪われた企画」と言われるのも大袈裟ではないぐらいの事態に、最後には笑うのも気の毒になってしまうぐらい憔悴しきってしまうテリー・ギリアム。しかし、そんな中でもほとんど唯一と言っていいぐらいの成果として挙げられているのが巨人のテスト撮影だった。その巨人が本作で再び現れる時、「狂気と創造の旅」が綺麗に一周して、俺は猛烈に感動してしまった。

『ロスト・イン・ラ・マンチャ』で脚本家のトニー・グリソーニが言う言葉が印象的だった。「ドン・キホーテが、現実に敗北した」。しかし、20年近くの時を経て、テリー・ギリアムという「ドン・キホーテ」は勝利したのである。こんなに美しいことってあるだろうか。

MCATM

@mcatm

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