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ケリー・ライカート『ウェンディ&ルーシー』/アメリカに鳴り続ける車の騒音

自分ではどうにもならない喧騒、都会とは言えないぐらいの寂れたストリートであれば特に車の騒音が鳴り続け、アメリカの映像作品の中に、こうした音環境に対する漠然とした恐怖を感じることが度々あるんだが、穿った見方なのかな。ケリー・ライカートに関して言うと『オールドジョイ』がまさにそれで、国道沿い(日本人感覚)の無機質で無愛想な風景を背にノイズを響かせ続ける自動車と、山の中の温泉地に流れる湧き水の音の対比が、僕の胸をざわつかせる。そのざわめきはラストの悲壮に直結していて、ウィル・オールダムの佇む夜のストリートの寄る辺なさが、映画の美しいのと同時に冷たく恐ろしい瞬間として記憶に刻まれている。同じように、アーロン・カッツ『Dance Party, USA』の中盤、人気のないモータープールで品格においてまるで不釣り合いな二人が向かい合う瞬間の、静けさと自動車のノイズ。他にもコゴナダ『コロンバス』とか、アレクサンダー・ロックウェル『スウィート・シング』とか、音風景における車について、アメリカの作家は意識的なのか無意識的なのか、一種独特の感性をむき出しにする。アメリカ映画と自動車って切り離せないんだな、と思わされてしまう。

ウェンディの人としての欠落は、この映画では単なる行為と結果のセットとして即物的に描かれる。万引きをして、捕まる。犬を放置して、はぐれる。そうした行為のセットは、ウェンディ本人には帰結させない優しさがある。哀しい欠落の結果をズルズルと引きずりながら、車社会からはじき出される様が描かれると、それとは異なる世界(列車の世界)が現れ、ウェンディは我々に別れも告げないし、目線も合わせようとしない。

MCATM

@mcatm

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